第1章

 

1986年春 二人のアイドルの自殺

 

 

 

 

 

岡田有希子事件の衝撃

 

 少女が自ら命を絶ったのは、今からおよそ30年前、1986年3月30日のことだった。

 少女の名前は遠藤康子といった。享年17。彼女は52日後に歌手デビューを控えたタレントだった。

 康子の事件から9日後の4月8日、今度は岡田有希子が自殺した。

 遠藤康子、岡田有希子、ともに二人の肩書きはともに〝アイドル〟。有希子も18歳と若く、3月に高校を卒業したばかりだった。

 岡田有希子といえば、1984年にデビューし、同年の日本レコード大賞最優秀賞新人賞を獲得したトップアイドル。松田聖子を有する芸能プロダクション『サンミュージック』に所属し、「ポスト・聖子」  とも評されていた。そんな彼女が、白昼のオフィスビルで死のダイブを決行したのである。

 場所はサンミュージックが入る四谷の『大木戸ビル』の屋上。このビルは四谷四丁目の交差点のラウンドマーク的存在で、付近は人通りも多く、有希子が落下していく瞬間を目撃した人も少なくなかった。

 

 岡田有希子が飛び降りる3時間前、午前9時ごろ。

 この日の彼女は、午前中に南青山の自宅マンション一室で自殺未遂事件を起こす。

 ガス栓をひねり、左手首の二箇所を切りつけた有希子は、「ガス臭い」というマンションの住民の通報で、駆けつけた赤坂消防署のレスキュー隊員によって保護されている。

 この部屋には4日前に引っ越してきたばかりだった。それまでサンミュージック社長・相澤秀禎氏の自宅に下宿していた有希子は、念願の独立を実現。オートロック式ではないこのマンションは、一時の仮住まいだったが、それでも初めての〝一人暮らし〟を喜んでいた。

 呼び鈴を押したものの、応答がなく、マンションの管理人によって鍵があけられるとドアはチェーンでロックされていた。

 チェーンを切って中に踏み込んだ隊員の証言によると「彼女は押入れの中でピンク色の毛布にくるまってシクシク泣きじゃくっていた」という。

 管理人から連絡を受けたサンミュージック専務の福田時雄氏は、有希子の付き人(女性)を伴って、彼女が搬送された北青山病院に急行した。

 寝台ストレッチャーに横たわり、頭から毛布をかぶった彼女は、警官1名、消防隊員3名によって運ばれ、病院に到着する。

 興奮状態で号泣していたものの、ガスは天然ガスだったため、中毒反応はなかった。左手首の傷は軽く、長さ5センチ未満、深さ5ミリと表皮にどどまっていた。手首を4針を縫い、「全治10日間、入院の必要なし」という担当医の診断を受けた。 

 病院の滞在時間はわずか15分程度だった。病院に同行した警官が「多少聞くことがある」と言っていたのに、一行は赤坂署へ事情聴取に寄らず、タクシーを拾って、サンミュージックに直行した。

 その日、社長の相澤氏は歯の治療で外出。担当マネージャーは長男の小学校入学式に出席していた。連絡を受けた二人は急遽予定を変更。相澤社長は治療を中断し、車で事務所に直行。マネージャーは病院に行ったが、一足違いで有希子とすれ違いとなった。

   タクシーの中では有希子の号泣がシクシクへと変化していた。3人は無言のままだった。一行を乗せたタクシーは一足先に四谷四丁目のサンミュージックに到着する。

 

 12時5分。

 岡田有希子、福田専務、付き人は、6階の社長室で、社長とマネージャーの到着を待つ。

 この間、3人は2、3の言葉を交わした。

 自殺のことには触れることはせずに、専務は有希子に「何かたべるかい?」と語りかけ、「何も入りません」「飲み物もいらない」という彼女の返答に、付き人が助け舟を出すような感じで「イチゴジュースがいいわよね」と言ったという。

   この頃、警視庁記者クラブから事件の情報を得た大勢の記者が、サンミュージックに集まろうとしていた。3人の飲み物を秘書が喫茶店に注文した直後、ここで運命の電話が秘書のもとに着信する。それは社長が自動車電話からかけた通話だった。

 〝有希子本人に聞かれてはマズイ〟と判断した福田専務は、社長室に通話をまわすことをためらった。隣の秘書室で話そうと部屋を出た。

 「ティッシュ、ティッシュ」

 岡田有希子は泣きはらした顔を拭こうと、テッシュを探す仕草をした。

 すると、彼女は専務の方向とは別の秘書室を通らない出入り口を飛び出した。

 7階の屋上までの階段を一気に駈け上がる。そして、彼女は屋上の重い扉を引いた。

 

 

   12時15分。

   屋上から落ちてきた物体は、あっという間に路上に着地した。

   真っ逆さまになった頭部はアスファルトに叩きつけられる瞬間、「バシャーン」という凄まじい衝撃音を放った。

   頭部より一瞬遅れて着地した肢体は、弓なりのようにバウンドし、やがて地面を抱きかかえるように倒れ込んだ。

   うつ伏せの体は、ピクピクと麻痺したように見えたが、それはほんのコンマ1、2秒の生体反応だったらしく、すぐに動かなくなった。

 「キャーー!!」

 まっ先に異変に気づいたのはビルの一階にある弁当屋に並んでいた女性客だった。

 みるみるうちに辺り一面は血だまりとなり、頭部からは脳漿と見られる肉片が放射上に散らばっている。ランチどきだったこともあり、弁当屋には多くのお客が並んでいたが、目の前に起こった信じがたい光景に恐れ慄き、客たちは散り散りとなった。

 「岡田有希子 自殺未遂」の第一報を受け、サンミュージックに向かった報知新聞のH記者は四谷四丁目の交差点にさしかかり、赤信号を待つ車の中で大木戸ビルから何かが落ちてくるのを目撃した。

 車から降りて近づくと、それは人間だった。顔がアスファルトにメリ込んでいるので誰だかわからない。スカートをはいているので中年女性だと思ったそうだ。H記者は同行したカメラマンのT氏に現場の写真を撮っておくよう命じた。これが〝アイドルの死体写真〟という前代未聞のスクープにつながった。アングル違いで数パターンが公開されたが、すべて報知新聞のT氏が撮ったものである。あのような凄惨な状態の遺体を写真に収めることができた時間はわずかだった。というのも、報知新聞が到着した直後、現場に駆けつけた有希子のマネージャーが、亡き骸を毛布で覆ったからである。

 マネジャーもまた、屋上から落下する物体を見てしまった。交差点で信号待ちしているタクシーの中からだった。黒いゴミ袋のように見えたが、直感的に〝有希子だ!〟と思ったという。タクシーを降ると、真っ先に彼の目に飛び込んだのは彼女の腕時計だった。

 

 

 

 

 

遠藤康子とは何者なのか

 

 

 奇しくも遠藤康子と岡田有希子は、ビル7階の屋上から身を投げた。

 有希子の死のダイブから1時間半後、サンミュージックが開いた緊急会見。

 いつもは芸能記者しか出入りしない同社に、一般紙、通信社、総合雑誌の記者が集まり、一人の記者がこんな質問を浴びせている。

 「先日、アイドル歌手の遠藤康子さんの自殺ということがあったわけなんですけど、あの事件がいくらか影響したとは考えられませんか?」

 「立場が違うと思いますね」 同社の福田専務は答えた。

 なるほど、「立場が違う」という専務の言葉は、芸能界に長年従事した人の独特の言いまわしだ。そう、同じアイドルでも二人の置かれていた状況は違っていた。

 岡田有希子は芸能生活3年目を迎え、それまでに40億円近い大金を稼ぎ出すなどサンミュージックのドル箱だった。

 一方、遠藤康子は記者から「アイドル歌手」 と呼ばれていたが、まだ歌手活動を始めていなかった。彼女は歌手デビューを目前に自ら命を絶ってしまったのである。康子のファーストシングルはすでに録音されていたが、プレスされることなく、発売中止が決定した。

 康子が所属した、  芸能プロダクション『ヒラタオフィス』、 レコード会社『リバスター音楽産業』(以下・リバスター音産)は、先行投資した数千万円をフイにした。

 また、会見で記者から「岡田有希子は遠藤康子について話していたか?」と聞かれると、サンミュージック福田専務は「僕は聞いていません」と返答した。

 後述するが、有希子は康子が自殺したことを知っていた。それは友人や関係者らの証言により、しだいに明らかとなった。

 遠藤康子の事件は、岡田有希子の自殺を牽引した、ひとつの引き金ではないか? わずか10日の間に起こった2つの事件に何らかの関連があるのではないか?   

   岡田有希子に関しては芸能記者、ジャーナリストから一般人まで、その死について考察したものが多数ある。有希子のバイオグラフィー、ディスコグラフィー、フィルモグラフィーはファンによってほぼ完璧に掘り起こされている。

   しかし、 遠藤康子に関しては、その経歴、どのような最期をむかえたのかまでを覚えている者はほとんどいない。彼女がデビュー前のアイドルだったこともあって、事件は検証されぬまま、彼女のパーソナリティー自体も忘れ去られた。

 長年、私は遠藤康子に強い関心があった。それは私が彼女と同じ昭和43年生まれで同学年だからという理由もある。彼女はずっとノドに刺さっているトゲのような存在だった。

 岡田有希子、遠藤康子が活躍した80年代は、現在のようなインディーズアイドル、ライブアイドルなど〝自称アイドル〟はいなかった。 

 アイドルになろうと思ったら、メジャー資本のレコード会社から売り出してもらえるチャンスを獲得する以外方法はなかった。康子はそんな狭き門をくぐり抜け、ファーストシングルの発売日を目の前にして自ら命を絶ったのである。

 そんなことは前代未聞のことだった。私のデビュー盤コレクションには、そこに入るはずの遠藤康子のスペースが空いたままだ。

 今の私の慰めは、10代のころに夢中になったアイドルたちの歌声を聴くことである。アナログレコードの溝に針を落としながら、良かった時代のことばかり思い出している。

 一昨年、私は20年以上勤めた出版社を辞めた。その後、斜陽と呼ばれる出版界で生き残ることの困難さを嫌というほど味わった。〝年をとって良いことなどひとつもない〟 そんなことを思うとは私の人生で予想外のことだった。絵に描いたようなミッドライフクライシス の毎日で、私は遠藤康子のことを想った。

 キミは、ずっと17歳のままだ。

 キミは、なぜ死んだのだ?

 キミは、誰もがうらやむエリートだったではないか。

 

 そう、デビュー直前の遠藤康子は「日本で最もイケてる 17歳だった」と断言できる。彼女は「1986年度のアイドルナンバーワン候補」の呼び声が上がっていたほどの女のコだったのある。

  80年代半ば、年間でデビューするタレントの数は350組とも400組ともいわれていた。その中でアイドル歌手路線で売り出された女のコの数は60組から80組くらい(ソロもグループも1組として計算)。3年後に残っているのは7、8組。さらに岡田有希子のようにスターと呼ばれるクラスになるのはせいぜい1、2組だった。

 康子がスターになっていたという保証はどこにもない。しかし、彼女には抜群のルックスの良さに加え、万全のバックアップ体制が整えられていた。

 「遠藤さんは、我が社から今年デビューする井上千鶴、MIOと並ぶ3本柱で、アイドルとしては一番期待されていた。同じ事務所系列の『工藤夕貴、中山美穂に負けない』なんてライバル意識むき出しにしていたぐらいで、死を選ぶなんて...」

 リバスター音産の社員は悔しそうに語っている。予定通りデビューしていたら旋風を巻き起こしていた可能性はあった。

 遠藤康子の写真を見せると、みな一応に「カワイイ!」という感嘆の声を上げる。同時に「昔のアイドルには見えない」という趣旨の感想さえ漏らす。長い手脚、整った顔立ち、特に力強いブラウンの瞳が印象的だった。ドラマ『スケバン刑事』(フジテレビ系・1985年4月11日〜10月31日)では、斉藤由貴演じるヒロインを苦しめる敵役を好演。また、雑誌のグラビアではまぶしいビキニ姿を披露した。 くびれたウエスト、引き締まったヒップ、スレンダーでいてちょっぴり豊かな胸元。全身からセクシーなオーラを発散させていて、実年齢よりも大人びて見える。昭和のアイドルは現在のアイドルの基準からすると、ぽっちゃりしていて、野暮ったく映るものだが、康子は現代でも十分通用するルックスである。

 デビュー前といえば普通どこか垢抜けていないものだが、彼女は違った。すでに完成していた。その洗練度はモデルという経歴の賜物だった。

 モデルは中学2年生のときからはじめ、資生堂ヘアーコロン、NECパソコン、サッポロ一番、花王ビオレなど、広告塔となった企業の数は20社ほど。多い時には同時期に何本もテレビコマーシャルがオンエアされていた。遠藤康子はCM業界でそれなりに知られた存在だった。

 さらに彼女はファッション雑誌のミューズだった。『オリーブ』(マガジンハウス)、『mcシスター』(婦人画報社)のモデルとしても活躍した。

 彼女が起用されていた1984年ごろの『オリーブ』といえば、リセエンヌ(フランスの女学生)路線を標榜し、日本人のモデルは滅多に登場することはなかった。

 当時の『オリーブ』には栗尾美恵子(現・花田美恵子。元・若乃花夫人)という同世代の女子から圧倒的な支持を集めるモデルがいた。成城学園高校1年生だった栗尾は、康子のように事務所に所属するプロのモデルではないのにもかかわらず、『オリーブ』初の専属モデルという待遇を受けていた。

 『オリーブ』で同学年の栗尾と康子が、コンビを組んで誌面を飾ることは少なくなかった。

   例えば、〝夢中になったらとまらない、15歳キラッ!〟と題されたファッションページ(1984年6月3日号)では、15歳の二人が『VIVA YOU』『45RPM』といった最新のDCブランドをカッコ良く着こなす。

 そうかと思えば、〝友達と、街探索してみない?〟と題された白黒ページ(1984年8月18日号)で、康子と栗尾は西荻窪、国分寺、自由が丘などの古着屋、アンティークショップをまわり、リラックした表情で服や雑貨に手を伸ばす。

 高価なDCブランドを着こなす一方で、郊外のショップにも顔を出し、安くて可愛いモノを探す出す二人の勇姿に触発され、「東京の女子高生はなんてファッショナブルなんだ!」とお洒落に目覚めたという、オリーブ少女は多いと聞く。

 色白でおっとりとした雰囲気の栗尾美恵子が 『オリーブ』で人気者になったのもわかる。日焼けした肌を持ち、快活な遠藤康子は、どちらかというとリセエンヌ路線の『オリーブ』よりもアメカジ路線の『mcシスター』のほうが向いていた気がする。それはともかく、あの時代のオリーブモデル、シスターモデルを兼任していたという事実は相当のステイタスだった。

 康子は、六本木、渋谷、原宿を遊び場にしていた。一人きりの時は、行きつけの喫茶店で大好きなハイネケンを飲みながら、文庫本を読むのを愛する少女でもあった。いうまでもなく、ハイネケンはドイツ産のビールである。当時は今よりも未成年のアルコール飲酒に対してゆるかった。私が通っていた都立高校でも、期末テスト、文化祭などの学校行事が終わると〝打ち上げ〟 として称して居酒屋で飲み会が開かれた。酒は酔っ払えるから、バカ騒ぎできるから飲んでいたのであって、味は正直よくわからなかった。同じころ、康子はビールに舌鼓を打ちながら、読書にはげんでいた。カッコ良すぎである。

 モデルとしての経歴は申し分ない。プレイベートも充実していた。足りないものがあるとすれば、タレントしての知名度くらい。

 そんな彼女に歌手デビューの話が持ち上がったのは1985年秋。

 「美人だし、若いのにセクシーで、モデルあがりらしいファッショナブルな面も持っている。いまはやりのおニャン子クラブとは逆に、大人のムードのアイドルとして大々的に売り出す!」ヒラタオフィスの社長は康子に太鼓判を押した。

 当時のプロモーション資料にこう書かれている。

   

         リバスター・レコード 5月21日新譜ご案内    

   Sepian Secret...(セピア色のひみつ)

       遠藤康子『IN THE DISTANCE』待望のデビュー

 

 

 

 

 

 

マスコミお披露目の日

  

 

 1986年1月13日。

 この日、リバスター音楽産業は、マスコミを集めて「'86  移籍 新人アーチスト発表記者会見」を開いた。会場に現れたのは6人の女性アーチスト。

   その中に遠藤康子の姿があった。橋幸夫(リバスター音産副社長)の隣に立った彼女。セミロングだった髪が伸び、ワンレングスになっていた。1年前は日焼けした肌の美少女、という印象だったが、この日の彼女は大人の女性へと変貌を遂げていた。

   康子は集まった報道陣の数に驚いた。この場所にいることが誇らしかった。

 彼女の横には井上千鶴がいた。井上は同社が主催した「'85 新人オーディション」において、1万413人の出場者の中からグランプリ受賞者に選ばれた大分県の高校生である。

 「ドキドキするね」 レーベルメイトであり、同期デビューとなる井上がつぶやく。彼女は昭和42年生まれで学年は康子より1つ上だ。

 「どうしよう。頭が真っ白になりそう」 緊張の面持ちの康子。セクシーさに一層の拍車がかける 。

 「それでは本年度、1986年、リバスター・レコードがおくるアーチストのみなさんをご紹介いたしましょう」司会者がそう言うと、一同は深々とお辞儀をした。

 レコード会社からイチ押しされている康子は、最初に自己紹介した。

 「遠藤康子です。昭和43年10月21日生まれ、17歳。身長158cm。スリーサイズは上から80、58、84cm。下町育ちで、おみこしをかつぐのが大好きです。元気の良さなら負けません。昨年は雑誌『mcシスター』に出たり、としまえんプールのポスターモデルに起用されました。念願の女優デビューもすることもできました。

   正直、私が歌をやるとは思ってみませんでした。ですが、橋幸夫副社長をはじめ、レコード会社、事務所のみなさんのおかげでここまでこれました。期待にこたえられるように、持ち前のガッツで頑張ります。どうぞ、応援よろしくお願いします!」

 いっせいにフラッシュが炊かれた。

 その他大勢ではなく、キチンとお披露目してもらえることが、康子は嬉しかった。

 「いいですねぇ、実に色っぽい。え、えっ、ホントに17歳? 高校生なの?」司会者が康子の成熟した容姿に驚く。

 「そうですよ! 学校はあんまり行ってないですけど」会場に、どっと笑いが起こる。

 司会者はプロフィールに付け加えるように言った。

 「セクシーで大人びた遠藤康子さんでした。彼女のキャッチフレーズは『セピア色のひみつ』 だそうで〜す」

 

 

 

 

 

 

遠藤康子のキャッチフレーズは「セピア色のひみつ」

  

 

 「セピア色のひみつ」は、遠藤康子につけられたキャッチフレーズだ。キャッチフレーズとは、デビューする際に用意される宣伝文句で、80年代アイドルのものとしては、中森明菜の「ちょっとエッチなミルキーっこ」 、山瀬まみの「国民のおもちゃ新発売」などが割と知られているかもしれない。

 ファンシーあるいはファニーなものが多い中で、「セピア色のひみつ」は異色の部類だ。

 「ひみつ」 はわかる。

 遠藤康子のライバルになるはずだった沢田玉恵のキャッチフレーズは「CBS・ソニーの神秘」だった。どことなく秘密めいた、神秘的な雰囲気を醸し出すキャラクターを持った少女に 「ひみつ」というフレーズを使うのは理解できる。

 しかし、 「セピア色 」とはどういう意味なのだろう。

 「セピア色」は古い写真、褪せたフィルムのイメージで、ノスタルジーを喚起させるために使用する言葉だ。曲のタイトルや歌詞に使用するならともかく、フレッシュさを売りにする新人歌手のキャッチフレーズにそぐわない。

 「セピア色のひみつ」は康子の運命を示唆していたように思える。

 やっとつかんだ歌手デビューを目前にしながら突然の自殺。アイドルシーンに登場することなく、彼女は「セピア色」のフィルムの中に自らを閉じ込めた。

 「男友達との関係を精算するよう迫られ、それを苦にした」というのが自殺動機の定説だが、「ボーイフレンドは大勢いが、特定の恋人はいなかったし、別れ話もなかった」 という、関係者、遺族の意見はほぼ一致している。

    「なぜ、自殺したのかわからない」彼女を知る多くの人が口がした。

 康子はなぜ死を選んだのだろう。

 セピア色の少女が残した「ひみつ」とは何だったのか。

 

 

 

 

 

 

新聞の片隅に載った遠藤康子の死

    

 

 

    歌手デビューか、男友だちか

        板ばさみ女高生自殺    台東

 

 

          東京都台東区で先月三十日夜、都立定時制高二年の女子生徒(十七)が、 七階建て

   のビルの屋上から飛び降りて死んだ。女子生徒は五月に歌手デビューする予定だった。

         だが、デビュー前に、所属の芸能プロダクションなどから、男友だちと別れるよう迫  

         られていた。遺書はなかったが、板ばさみに苦しみ、自殺したのではないか、と蔵前

         署は見ている。

          調べによると、この女子生徒は三十日午後六時ごろから一時間半にわたって同ビル       

         近くの母親(四四)の実家で、母親と芸能プロダクションの担当マネージャーと話し    

         合った。マネージャーと母親は「デビューするなら男友だちと別れ、身の回りを整理

         しないとまずい」と、交際していた男友だちと別れるよう強くしかった。この直後に、   

         飛び降りた。

            女子生徒は、五十八年十月から同じプロダクションでモデルなどをしていて五月に

   はレコード会社から新曲を売り出す予定だった。

                  

                                                               1986年4月1日付け『朝日新聞東京版夕刊』 

 

 

 遠藤康子の死は、事件から2日後の1986年4月1日に報じられた。一般紙では彼女の名前が伏せられていたが、事件を追ったスポーツ紙、週刊誌、ワイドショーは違った。彼女の実名を公表した。世間的には無名だったとはいえ、マスコミは遠藤康子というアイドル候補の死をセンセーショナルに伝えている。

 まず、巷で流布している彼女の命日が「1986年3月29日」というのは間違いだ。当時の報道で事件が起こった日を「3月29日」と記載していたものはひとつも存在しない。 

 また、先の新聞記事をはじめ、康子を高校生として扱っている記事は少なくないが、厳密に言えば、死亡時の彼女は女子高生ではなかった。自殺する2ヶ月前、都立A高校定時制を1月31日付けで自主退学している。退学時の学年も2年生ではなく1年生だった。1年生の時に留年していたのである。

 それでは、事件が起こった遠藤康子の3月30日の行動を振り返ってみよう。

 

○午後2時30分ごろ

 所属プロダクション『ヒラタオフィス』の養成所(四谷)でレッスンに励む。

○午後4時30分ごろ

 レッスン終了。担当マネージャーのM氏と一緒に、康子の母親・H子さんが経営する喫茶店(台東区)に向かう。そこでは、M氏、遠藤康子、  H子さんの3人による打合せが行われることになっていた。

○午後5時40分ごろ

 打合せ開始。M氏からプロモーションスケジュール、タレントとしての一般常識などが話される。 

○午後7時10分ごろ

 打合せ終了。M氏が喫茶店を出る。二人きりになった母と娘は20分ほど会話をする。

○午後7時30分ごろ

    母親を残して喫茶店を出る。

○午後8時34分

    路上で倒れているところを通行人に発見され、救急車で墨田区内の病院に搬送される。

○午後9時30分過ぎ

 全身打撲により死亡が確認される。

 

 1時間半に及ぶ打合せがどのような内容のものだったのか、その時の遠藤康子の様子はどうだったのかについては、後ほど関係者の証言から検証したい。

 3月30日は夜半から雨が降っていたという。康子がダイビングした場所は、打合せが行われた母親の喫茶店の2軒隣に建つA社のオフィスビルだった。母親と別れた彼女は、このビルの7階の屋上に向かった。

 屋上には簡単に上がれる状態でなかった。この日は日曜日だったこともあり、A社の表玄関はシャッターが降ろされていた。

 ビルの裏手にある通用口もまた施錠されていた。そこで彼女は通用口の鉄柵をよじ登った。

 その高さ2.5メートル。A社の敷地内に入った彼女は、ビルの外側に設置された非常階段を上がる。

 7階の踊り場に着くと、 ここで行き止まりとなった。屋上に通じるドアがガッチリと鍵がかけられていた。

 ドアの外壁は高さが3メートル。すると、彼女は男でも登るのが容易でない壁をはい上がった。ついに康子は屋上にたどり着く。

 高さ1.5メートルの屋上パラペッドに近づくと、その上に立ち、やがて宙へと身をひるがえした。

 

 彼女はA社ビルの真下ではなく、1軒先のビルの前に着地した。そこは喫茶店の隣のビル。正確に言うと、ビルの前にある横断歩道に落下した。ちょうど横断歩道の端あたりだ。 

 生前の康子が最期に目撃された場所は母親が切り盛りする喫茶店である。そこは母親の実家でもあった。1階を店舗として使用し、3階には遠藤の祖母が住んでいた。つまり、康子のおばあちゃんの家に当たる。

 打合せが終了した後、康子は外に出かけ、母親のH子さんは店のかたずけをしていた。彼女は、娘と一緒に江東区の自宅に帰るつもりだった。

 だが、娘は喫茶店へ戻らず、2軒先のビルに屋上に行った。そして、母親と祖母が待つ建物へ向かうように斜めの方向に飛び降りた。

 屋上にはイヤリング2個と現金1500円が残されていただけで、遺書はなかった。

 それにしてもである。

 岡田有希子の場合、6階のサンミュージック社長室に待機していた、という屋上までの物理的な近さがあった。

 康子は、1階通用口の2.5メートルの鉄柵を乗り越え、日曜夜のオフィスビルに侵入した。7階の屋上へ行く進路も閉ざされていたのに、3メートルという高い外壁を乗り越えた。

 そこには死に対する並々ならない思いを感じる。

 また、康子が喫茶店を出て、路上で倒れているところを通行人に発見されるまでの時間が1時間ほどある。彼女はその間なにをしていたのだろうか。

 

 

 

 

 

 

お祭り少女

   

 

 

    ちゃきちゃきの江戸っ子なんですよ。だから、お祭りが大好き。出店で綿飴アメを

    買ったり、「ワッショイ、ワッショイ」って威勢のいいおみこしを見たりするのが大   

        好きなの。もしボーイフレンドができたら、いっしょにお祭りに行ってくれる人が

        いな、なんて思うです。

         好きな食べものはゴハンとおさしみ。ケチャップとソースが嫌いなの。私って古い

        和風の女のコなのかな...。でも、スケートボードだってできるし、テニス自分じゃ得

    意なつもりなんですよ。

                              

                                                  『DELUXEマガジン No.8』(講談社)1984年6月号

 

 

 遠藤康子は、1968年10月21日、父・S郎さんと母・H子さんの次女として生まれた。東京・江東区で育った彼女は、幼いころから活発な女のコだった。チャキチャキの江戸っ子らしく、お祭りのシーズンが来るのを常に待ちわびていた。夏になるとハッピ姿でバッチリきめ、髪も自分で結った。

 目鼻立ちのはっきりした彼女は地元でも評判の美少女だった。お祭りと聞けばどこにでも出かけっていった。友達同士のこともあったし、ひとりで出かけることも多かった。

   気さくな彼女は、知らない人ともすぐに打ちとける。根っから明るい性格で、おしゃべりを始めるといつの間にか人が寄ってきて、まわりのみんなが笑いころげてしまう。

 

    「下町っ娘らしく、祭りでみこしをかつぐのが大好きで、突然、ほっぺに指にマルをつくって、『ね、見て見て、タコヤキ』なんて、人を笑わせてばっかりいた」(幼なじみの証言)

 

   「学校では生き生きしていました。 あの年代の子ははしがころげても笑うものですが、康子はその中でも笑い声が特に大きかった」(高校の担任の証言) 

 

   「帰ってくるときも『ヘイ、ヘイ、ヘーイ』と歌いながら家に入るような子でした」(母親の証言)

   

 また、康子は体を動かすのが大好きな少女だった。スポーツ万能の彼女は様々な種目に熱中した。小学生の頃は自宅近くの道路で、朝から晩までスケートボードに興じた。あちらこちら傷だらけになって滑る姿はまるで男のコのよう。スケボーは雑誌の取材にも自前のボードを抱えてやってくるほどお気に入りだった。

 中学に入るとバレーボール部に入部。本当はアタッカーになりたかったが、やや身長が足りずにポジションはセッターにまわされる。上級生になるとレギュラーに定着。正確無比なトスをあげる彼女は頭脳プレイヤーとして活躍した。

 定時制高校ではバスケットボール部に所属。仕事が忙しくなり、練習には頻繁に参加できなかったようだが、それでも高校の部活動の様子を雑誌で楽しげに語っている。

 

     康子   バスケやっています。レギュラーなんですよ。

   BP     ずっーとやってたの?

         康子   高校からです。友だちが入って私もって。で、始めは人数が少なかったんでレ  

                  ギュラーだったんですけど、今年新しい子がたくさん入ったんですけど、まだ

                  レギュラーなんです。 

         BP     結構上手いんだ。

         康子   どうだろう。スポーツは好きなんですけど、体を動かしていることが好きだか    

                  ら。あっ、バスケの試合2回戦まで勝ったんですよ!

         BP     2回戦までって、3回戦で負けたっていうこと?

         康子   いえ、もうすぐ3回戦があるんですよ。それで勝つとベスト4なんです。うちの

              学校では初めてのことなので頑張っているんです。

                                                           (中略)

         BP     一度、康子ちゃんのバスケの試合を見てみたいなあ。

         康子   この前の試合でケンカしちゃってんです。5分で退場しちゃって。

         BP     ヒエ〜!

         康子   いやあ、すぐ熱くなる方なんですよ。 だからカーッときちゃうとダメなんです  

                  よ。

         BP     取っ組み合いなんかするわけ?

         康子   いえ、口で言い合いするだけなんです。

         BP     それだけで退場?

         康子   いえ、過激なことを言ったもので。とても人には言えないようなことを。

                 

                                                                 『Beppin』(英知出版)1985年9月号

 

   バスケの試合で「相手チームの選手に暴言を吐いたため、退場になった」というエピソードを明している。康子は曲がったことが嫌いで、サバサバものを言った。

   この威勢がよさこそ、江戸っ子である彼女の持ち味だ。16歳の誕生日の3日後には50ccのバイクの運転免許を取得した。行動範囲がさらに広がった。

   「おっ、ヤッチャン。免許とったんだ。相変わらず元気だね〜」原付バイクでかっ飛んで行く少女の姿を近所の人が目を見張る。

 

    でも免許を手にして、なんと3日後にはおまわりさんにつかまちゃったのネ、黄        

       色だからスレスレで渡ったと思ってたら、横からおまわりさんが出てきて、「止まり

       なさい」といわれちゃった。「エー、ヤッコはなんにもしてないよーッ」といったん     

       だけど。名前は、住所は、と聞かれて調書をとられちゃった。その間中、わ〜んわ〜      

       んと泣いていたら、おまわりさんがおこっているんじゃないから泣きやみなさいと       

       いったから、「じゃあその赤い点滅ランプを止めてください」っていったら笑われて  

       しまった、ナハハハ。でも免許をとったその日のうちにみんなに「見て見て」といっ  

       て喜んでたから、つかまったという悲しみがつよくてつよくて。もう絶対つかまりま   

       せ〜ん。

                      

                                            『DELUXEマガジン No.11』(講談社)1984年12月号

 

    持ち前の茶目っ気で警察官をも笑わせてしまった康子である。

 

 

 

 

 

 

ママ、行ってらっしゃい

 

 

 

   江東区の集合住宅に、かつて遠藤康子は住んでいた。その場所を訪ねてみた。

 蔵前橋を渡りきると、やっと下町に来たという実感がわいた。右手前方には巨大な両国国技館が見える。自殺現場となった台東区も下町なのだが、隅田川を越え、江東区エリアに入ると街がさらにディープ度を増す。

 墨東地区に訪れるのは久しぶりだ。西東京エリアで生活のほぼ全般を済ましてしまう、私にとって隅田川を越える機会はそれほど多くない。

 国技館を通りにすぎると、ひたすら徒歩で南下した。かれこれ30分以上は歩いたか。

 歴史を感じさせる商店街にたどり着いた。

 「純喫茶 」と呼ぶのにふさわしい喫茶店、かっぽう着のおばあさんがきりもりする定食屋、水着キャンペーンガールの褐色したポスターが貼られた化粧店、なんとも郷愁を誘うお店が点在する。ここだけ昭和50年代で時間が止まった印象だ。

 商店街を抜けると目的の集合住宅がそびえ立っていた。隅田川からわかれた河川添いに建てられた巨大な建物。そこは、とある橋のふもとで河川には屋形船が停泊している。

 非常にのどかな風景だったが、建物は老朽化が目立ち、出入りする住民のほとんどがお年寄りだった。

 遠藤康子はここから徒歩10分ほどの場所にある公立小学校を卒業。同じく学区内の公立中学校に通った。中学3年の時、モデルの仕事が忙しくなったため、学校を休みがちになり、ひとり10日遅れて中学校を卒業したという。

 生前の康子がよく手を振っていたというベランダも見える。  

 

「朝七時に、私が店に行く時に、ベランダから『ママ、行ってらっしゃい』と手をふるんです。『朝早いのに大きな声だしたら迷惑だよ』と私が注意したくらいで」(母親の証言)

 

 親孝行で家族思いだった遠藤康子。実家は3代続いた魚屋だったが、康子が4歳の時に父親のS郎さんが胃ガンで亡くなるという不幸に見舞われた。

 彼女には2歳上の姉と2歳下の弟がいた。以来、母親のH子さんは、3人の子供を育てるため、飲食店や喫茶店を経営しながら、ろくに休みを取らず、懸命に働いた。

 

「ヤッコが4歳のとき主人が病死しました。姉は学校へ行っていました。弟は実家へ預けました。ヤッコ1人が鏡を相手に話をしながら留守番していたのです」(母親の証言)

 

 遠藤康子と会った人の多くが、「暗さはみじんもなかった」と彼女のネアカぶりを指摘しているが、幼少期はさみしい思いをしたようだ。

 

 

    私ってすごく甘えんぼなんです。中3のころまでママと一緒に寝てたんです。こ

         の前もロケに行ったらホームシックになって泣いちゃったんです。

             

                                           『平凡パンチ』(マガジンハウス)1984年8月27日号

 

 3人きょうだいの真ん中で育った康子には、一番の甘えんぼうで弟のほうが逆にお兄さんぽかったという。お祭りの好きで人が集まるにぎやかな場所を好んだのは、人一倍さみしがり屋だったゆえんだ。

 古手川祐子似だという美人の姉とはときどき一緒にお風呂に入るほどの仲良しで、二人は風呂上がりに全裸のまま部屋を歩きまわった。

 「ネェ、パンツくらいはいてよ!」弟は奔放な姉たちに文句を言った。

 父親はいなかったが、笑いの絶えない家庭だった。

 家族の絆は強かった。

 

 

 

 

キミだけ来てくれ

 

 

 

     成功する可能性は百分の一あるかないか、大変な困難と人一倍の努力が必要とさ

      れるこの道へ、私は胸を張って出発していきます。

                    

                     中学校の卒業文集に書いた遠藤康子のコメント  

    

 社交的で物怖じしない遠藤康子の関心は芸能界に向いた。

 小学5年生の時に『劇団ひまわり』に入団 。康子の初仕事は子役として出た映画だった。

 それは『魔性の夏 四谷怪談』(1981年劇場公開)。この映画は萩原健一、高橋恵子、夏目雅子が出演するなどの話題作であったが、中学に入って成績が下がったため劇団ひまわりは辞めている。

 転機が訪れたのは中学2年生の春休み。

 友達と原宿に遊びに行く途中でモデルプロダクションにスカウトされたのだ。スカウトされた場所は地下鉄の中で、六本木駅だった。

 声をかけられたのは一緒にいた友達のほうだったが、そのコに頼まれて事務所に電話すると「キミだけ来てくれ」と言われた。友達には申し訳ない気持ちになったが、芸能界に対するは興味が尽きたわけではなかった。

 1983年春、こうして遠藤康子の本格的な芸能活動が始まる。同年、日立ドライヤーのCFでモデルデビューを果たす。

 彼女を発掘したのは『ボックスコーポレーション』(以下・ボックス)だった。会社設立3年目の同社は、新興のモデルプロダクションだったが、中島はるみ、中島めぐみという看板姉妹モデルを有し、業界内でもそれなりの地位を獲得していた。同社のスカウトマンは渋谷、原宿、六本木...若い女性の集まる繁華街で光る原石を探した。

 康子をスカウトをする、ちょうど1年前。原宿のアイスクリーム屋の前でたたずむ美少女がいた。その強い目ぢからにスター性を感じたスカウトマンはすぐさま名刺を差し出した。

 美少女の名前は中山美穂といった。

 

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