第2章

 

星くず姉妹

 

 

 

 

中山美穂が語った2つ年上の姉的存在

 

 

 

 

    わたしは85年に歌手デビューをしました。その翌年にモデル仲間の友人も歌手デ           

          ビューをするはずでした。仕事を始めて知り合い、仲良くなった2つ年上の姉的存在。   

   私が住む小さなアパートに彼氏と遊びに来てくれたり、渋谷や六本木にも連れて行っ  

         てくれました。下町っ子でさばさば物を言い、私にはない愛嬌を持っていて憧れてい   

         ました。ある年のエイプリフール。コンサートのために名古屋に向かう道中、マネー  

         ジャーが「あの娘(コ)、死んじゃったよ」と私に告げました。彼女のことです。嘘   

         としか思えませんでした。彼女は自ら命を絶ちました。その数日前に話した時になに  

         も死を感じることができず、自分を責めました。コンサートを終え自宅に戻り、翌朝   

         起きてリビングに出ると、家族がテレビを見ていて、そこには彼女のニュースが流れ     

         ていました。

                 (中略)

           彼女がなぜ死を選んだのか、ほんとうのことは私にはわかりません。ただ、曲がっ  

         たことが大嫌いな性格で、当時の仕事の常識に大いに不満を持っていたのではないか

         と、私なりに想像しました。お付き合いしている男性と別れなさいと言われたのでは  

         ないか?と幼い頭でそう解釈したのです。

                 (中略)

          私の住む小さなアパートに大好きな彼氏を連れてきてくれた彼女は美しいだけで             

         なく、愛嬌があり天真爛漫で家族思いで、意志のはっきりした瞳を持っていました。  

         彼女のたくさんの笑顔は写真の中で、ずるく汚い人間に負けないで、とはっきり今も  

         言っているような気がします。

                         

    中山美穂『なぜならやさしいまちがあったから』(小学館)2009年5月13日発行

 

 

 

 中山美穂が2009年に発表したエッセイ(もともとは雑誌『LEE』に連載されていたコラム)には、匿名であるが、遠藤康子に関する記述がある。二人はほぼ同時期にボックスコーポレーションに在籍していた。仕事現場で意気投合した彼女たちはプライベートでも遊ぶようになった。モデル時代に受けた取材でも康子は「中山美穂がいちばん仲よし」と答えている。

   二人が知り合った時期はいつだったのか。中山美穂は12歳になったばかりの1982年春、原宿のアイスクリーム屋の前でスカウトされた。

   一方、遠藤康子はその1年後、1983年春、原宿に向かう地下鉄の中でスカウトされている。中山美穂のほうが1年先にボックスに入り、彼女は中学1年生のときに漫画雑誌『花とゆめ』(白泉社)1982年10月5日号の懸賞ページでモデルデビューしている。

 調べてみると、二人がモデルとして一緒に起用されている雑誌があった。前述の『花とゆめ』で、1番古い物は1983年7月20日号だった。おそらくこれが初共演だろう。以降、同誌で二人が一緒にキャスティングされることは珍しくなかった。

 すでに1983年の『花とゆめ』で遠藤康子は 「ヤッコ」という愛称で呼ばれてる。「ヤッコ」は、岡田有希子の愛称 「ユッコ」との類似を指摘されることもあるが、有希子の本名は佐藤佳代で、芸名が決まったのは1984年だ。「ユッコ」よりも「ヤッコ」のほうが早く使用されたことは間違いない。

 それはさておき、遠藤康子と中山美穂との交流が始まったのは1983年夏ごろとみられる。エッセイでは「2つ年上の姉的存在」とあるが、美穂は1970年3月1日生まれ、康子は1968年10月21日生まれ。学年では1つしか違わない。

 中山美穂もまた遠藤康子のように小学校時代は劇団に所属していた。美穂は、小学4年生の時に三原じゅん子のいる『東京宝映TV・劇団フジ』に入ったものの、「人から何かを教わるのは嫌」という理由で数か月で辞めている。

 二人は、幼いころから上昇志向が強く、境遇も似ていた。年齢も近く、ともに1男2女の3人きょうだい。母子家庭という決して経済的に恵まれない環境の中で育った。

 まるで姉妹のようだった。

 二人の少女モデルは「有名になりたい」と夢を語り合った。

 

 

 

 

親友が亡くなった日に1日署長をしていた中山美穂

 

 

 

 それからおよそ3年後。

 中山美穂は遠藤康子の死を知る。事件から2日後の1986年4月1日、名古屋へ向かう移動中で...。

 翌4月2日は愛知厚生年金会館でファーストコンサートツアー『バージンフライト』がスタートする日だった。彼女は記念すべき日の前日に友人の死を知らされた。

 康子が自ら命を絶った3月30日に美穂は何をしていたのか。その日の午前中、彼女は都内で行われた『中野交通安全のつどい』というイベントに出席していた。中野警察1日署長に任命された美穂は婦人警官の格好で登場。前月に発売された『色・ホワイトブレンド』を披露した後、集まった観客の前で交通安全を訴えた。中野区の小学校に設置された特設ステージに座り、警察関係者の挨拶やブラスバンドの演奏を退屈そうに眺めていた。その日の夜、友人の亡き骸が検視のため、警察署に運ばれているとは夢にも思いもしなかっただろう。

 4月1日、名古屋への移動中に康子の死を知った美穂は、その夜におこなわれた通夜、4月2日の告別式にも駆けつけることはなかった。自宅のリビングでニュースを見たというのは4月3日だろう。この日、ワイドショーは康子の事件をいっせいに報じている。 

 康子の死から2年後、88年初めに行なわれたコンサートツアーで、美穂は『Long Distance 天国へ』という曲を披露する。タイトルは発売中止となった康子のデビュー曲『IN THE DISTANCE』に対するオマージュで、彼女に捧げたレクイエムだった。自らが作詞・作曲をつとめた『Long Distance 天国へ』は『Long Distance To The Heaven』と曲名を変えて、同年7月に発売されたアルバム『Mind Game』に収録された。 彼女なりの追悼の意を示したということらしい。

 

 中山美穂のエッセイには「その(自殺の)数日前に話した」とあるが、遠藤康子と会って話したのか、電話で話したのか、何を話したのか、詳細は書かれていない。

 康子が亡くなる直前、美穂はすでに売れっ子アイドルとして、その知名度は全国区となっていた。当時の雑誌によれば、美穂は「朝早くから、ドラマの撮影に、歌の仕事。そして、その合間をぬって取材を受けるという、超ハードなスケジュールで、毎日の睡眠時間はたったの3〜4時間」という状況。康子もまた「デビューに向けて毎日レッスンを続けていた」(ヒラタオフィス社長の証言)。二人が合う時間はなかったと思われ、会話が電話だった可能性は高い。最後の会話はどんな内容だったのか。美穂は康子から恋愛の悩やみ、芸能活動に関する不平・不満を本当に聞かされなかったのだろうか。

 「なにも死を感じることができず」と美穂は痛恨の念を明かすが、当時置かれていた状況を考えれば、仮に感じたとしても何もできなかったのではないか。彼女はすでに大人たちが用意したジェットコースターに乗っていた。自分はすでにトップアイドルへの道を突き進んでいる。波風は立てられない。康子にしても自分より年下で、しかも飛ぶ鳥を落とす勢いの美穂に対して弱みを見せることはできなかったのかもしれない。

 ドラマ『毎度おさわせがせします』(TBS系・1985年1月8日〜3月26日放映)でブレイクするまでの中山美穂は、ぱっとしないモデルだった。モデルとして比較した場合、雑誌『オリーブ』『mcシスター』で活躍していた遠藤康子のほうが格上と言える。

 「彼女は負けん気の強い子で、中山美穂をライバルと意識しているところがありましたね」 (橋幸夫 リバスター音産副社長の証言)。 

 康子がアイドル路線へ進出することによって、美穂との関係は微妙なものとなっていく。

 かつては星くずだった二人。

 一方はまばゆいばかりの輝きを放ち、一方は消滅しようとしていた...。

 

 

 

 

 

歌手デビュー決定                                 

    

 

 

 

      コンニチワ、ヤッコでーす! いつもニコニコ元気いっぱい。エッ? どーしてそん   

   なウキウキしているのかって?   そりゃー、あこがれの女優になったんだモン。ヤッ   

   コは中2の時からモデルをやっていたんだけど、そのころからズーッとズーッと女優   

       になることを夢見ていたの。そして今年の6月、ついに月曜ドラマランド『奥様は不  

       良少女⁉   おさな妻』の高子役でデビューしました。まだ駆け出しの女優、ヤッコ    

       をどーぞヨロシク。

          

                                           『DELUXEマガジン No.16』(講談社)1985年10月号

  

 

 

   遠藤康子がモデルプロダクションからヒラタオフィスへと移籍したのは、1984年10月。  

  「桃色かおりさんや藤田美和子さんのようなクセの女優になりたい」とたびたび明言していた彼女。ヒラタオフィスへの移籍はその夢を叶えるため判断だった。小学生のころは劇団ひまわりに在籍していたように、康子はもともとは女優志望だったのである。

 ヒラタオフィスは女優・島田陽子が所属する平田崑プロモーションの平田社長が経営する『ヒラタグループ』の一つ。当時、約50人のタレントを抱えていた同社は工藤夕貴に続く、スター候補を探していた。もともとモデル専門の事務所としてスタートしたヒラタオフィスは、康子が移籍した年に工藤夕貴を30億円かけて売り出すなど、最も勢いのある芸能プロダクションと見られていた。

 同社が手がけたアイドルタレント第1号となった工藤夕貴は、実父が演歌歌手の井沢八郎であることをすっぱ抜かれたり、映画『台風クラブ』(1985年劇場公開)での演技が高い評価を受けるなど、何かと話題を呼んでいた。ちなみに彼女の母親は、井沢八郎と離婚後にヒラタオフィスのS社長と再婚している。同社は工藤にとって新しい父親の会社である。

 移籍直後、康子にまわってきた仕事といえば、この工藤由貴のバーター(抱き合わせ)になるざろうえなかった。 康子のドラマデビュー作品となった『奥様は不良少女⁉ おさな妻』(フジテレビ系・1985年6月10日放映)は、主演を演じる工藤の友人役。彼女が起用されるアイドル雑誌に康子も一緒に載るというパターンが多かった。

 ドラマの仕事は『奥様は不良少女⁉ おさな妻』のほか、『'85年型 家族あわせ』(TBS系・1985年10月11日〜12月20日放映)、『スケバン刑事』の合わせて3本。いずれも脇役だった。モデルの世界では顔が知られていた康子だったが、女優としては工藤夕貴、仙道敦子、斉藤由貴の後塵を拝するかたちとなっている。

 すぐにヒロイン役に抜擢されるような甘い世界ではないことは、本人も理解していたようだ。 しかし、モデル仲間の中山美穂はすでにそれをやってのけていた。彼女はドラマデビューの『毎度おさわせがせします』でいきなり主役を演じているのだ。

 康子がドラマの脇役に甘んじていた1985年という年は、前年に続いてアイドル豊作の年だった。中山美穂は『毎度おさわせがせします』の余波をかって、4月にファーストシングル『C』を発売。たちまち大成功を収める。

 そのほか、同年には斉藤由貴、南野陽子、本田美奈子、浅香唯など錚々たるアイドルが歌手デビューしている。また、夏頃にはおニャン子クラブが社会現象と呼べるほどの大ブームを巻き起こしていた。

 おニャン子旋風は芸能界のアイドル志向に拍車をかけた。プロダクション、レコード会社ともにカワイイ女のコ探しに奔走した。おニャン子のような素人っぽさを売りにしたアイドルが受けている一方で、正統派の美少女アイドル路線もまだまだ需要があった。しかし、「第2の中山美穂」「第2の斉藤由貴」と呼べるような逸材はそう簡単には見つからない。

 

 

 

 

 

 

遠藤康子をプロデュースしたのはセイントフォーを手がけた橋幸夫

 

 

 

 そうした中、遠藤康子に白羽の矢が立った。康子に歌手デビューの話が舞い込んだのだ。その話がまとまったのは1985年10月ごろ。レコード会社はリバスター音楽産業と決まった。デビュー日は、1985年いっぱい、1986年4月などの候補があったようだが、最終的には1986年5月21日と決定。

 康子は、当時の基準からすると決して若いほうではなかった。アイドル歌手として売り出すにはギリギリの年齢。レコードが発売されるころには17歳になっている。学年でいえば高校3年生(高1の時に留年しているので、進級しても現実には高校3年生ではないが...)。

 こうして彼女は、リバスター音産が売り出す「1986年度の新人アイドル」となった。ちなみに、歌手デビュー日が1986年5月21日のアイドルといえば、康子のほか、浅倉亜希、島田奈美、中沢初絵(漫画家・山咲トオルの姉)、中村晴美、福永法規などがいる。余談だが、今井美樹の歌手デビュー日も1986年5月21日である。当時の今井はシンガーというよりモデル兼役者という立ち位置だったから康子に似ていなくもない。

  「〜年度、何々(レコード会社)の新人」という呼び方は、 昭和の芸能界のビジネスモデルであり、現在、この呼び方に違和感を覚える方も多いと思う。

    松田聖子は 「1980年度のCBS・ソニー」、中森明菜は「1982年度のワーナー・パイオニア」、小泉今日子は 「1982年度のビクター音楽産業」、中山美穂は 「1985年度のキングレコード」、それぞれのレコード会社が売り出した新人アイドルだった。レコード会社の名前が入ったタスキを肩から斜めにかけて、持ち歌を歌うアイドルの映像を目にしたことがないだろうか。

 かつてアイドルといえば、アイドル歌手と同義語であり、歌手活動が大きな比重を占めていた。そのため、芸能プロダクションはレコード会社と強力なタッグを組み、『日本レコード大賞』をはじめ年末に行われる賞レースの最優秀新人賞を獲らせることに必死だった。

 デビュー日にも配慮した。フレッシュ感を出すためデビュー日を 「卒業・入学シーズン」に合わせることが慣例で、イチ押しする新人アイドルのファーストシングルは3月から5月にリリースされることが多かった。賞レースにからませるには年明け1月、2月では早すぎるし、春先から夏前にデビューさせるのがベストだった。

 

 遠藤康子を手がけることになったリバスター音産は、1982年に創設された新興のレコード会社であり、それまでに同社からデビューし、ブレイクしたアイドルは皆無だった。

 リバスター音産のアイドルといえば、何といっても40億円とも言われる宣伝費用をかけて売り出された『セイントフォー』だ。

 1984年11月、『不思議Tokyoシンデレラ』でデビューしたセイントフォーは板谷裕三子、 浜田範子、鈴木幸恵、岩間沙織の4人によるグループだ。

 彼女たちは芸能プロダクション『日芸プロジェクト』がダイレクトメールで募集した3万人の女のコの中から選抜されたメンバーだった。その過程が映画『ザ・オーディション』(同年劇場公開)になるなど、メディアミックスの戦略を使ったアイドルの走りと言えた。ロック調の楽曲、バック転を取り入れたアクロバティックなパフォーマンスも売りだった。だが、斬新すぎる芸風が裏目に出た。予想したセールスをはるかに下回ったのだ。

 その後、セイントフォーの総括責任者だったリバスター音産・橋幸夫副社長は、日芸プロジェクト側とプロデュース方針をめぐり対立。日芸プロジェクトは、橋に対して印税に関する異議申し立ても起こしている。そうした状況もあって、セイントフォーといえば、新曲がなかなか発売されなかったり、コンサートツアーが中止したり、メンバーが途中脱退したりと、ゴタゴタの多かったアイドルグループとしての印象が強い。 

 また、セイントフォーがデビューした翌月1984年12月に、ヒラタオフィスから工藤夕貴が歌手デビューしている(レコード会社はハミングバード)。工藤もまた30億円のプロモーション費用をかけたが、こちらもセイントフォー同様セールス的には惨敗に終わった。

   遠藤康子の歌手デビューが決まった時期というのは、リバスター音産、ヒラタオフィスともに危うい状態にあったと言える。〝 高額プロモーション〟のおかげで会社としての体力が奪われていた。

 アイドル市場への参入に失敗した両社は、康子に対して「今度こそ」という強い期待があった。だからこそ、「男友達と別れるよう彼女に迫った」という説が、にわかに信憑性をもって語られていたのである。         

 

 

 

 

涙の告別式       

    

 

 

 1986年4月2日。

 遠藤康子の葬儀・告別式は、ヒラタオフィスの社葬の申し出を断って、江東区の自宅(集合住宅)でしめやかに行われた。自宅の玄関前には、焼香に訪れた尋問客で長い列ができていた。友人、仕事仲間、近所の人たち約130人が集まり、最後の別れを惜しんだ。1月まで彼女が通っていた都立A高校定時制のクラスメートたちは、あまりの突然の出来事にショックの表情を隠せない。

 

  「悔しい。どうしてなの。あんなにデビューを楽しみにしていたのに...」

   その光景を神妙な面持ちで見守る、所属プロの社長、担当マネージャー、橋幸夫らも同じ気持ちだった。

 やがて康子の遺体をのせた棺が建物の1階におりてきた。すぐそばには衰弱しきった姉と弟の姿も見える。

 「私が悪かった」そう言って棺にすがり泣きじゃくる母親。

 あの日の打合せさえなかったら、康子は死ななかったのだろうか。

   

 告別式の後、東京・麹町にあるリバスター音産で記者会見が行われた。

 まずは彼女の担当マネージャーをつとめていたM氏が口を開いた。

 

    M氏     3月30日の当日、康子は午後2時半から2時間、四谷でレッスンを受けていまし

      た。それでレッスンが終わると、ぼくと一緒に康子のお母さんの経営する店に一

              緒 行きました。時刻は午後5時半過ぎです。店内でデビューの心構えなどを、

              康子、お母さん、ぼくの3人で話し合いました。話したのは礼儀作法やけじめの

              ことで、彼女は別段変わりなかったです。

 記者   礼儀作法やけじめって具体的にどんなことなの?

 M氏   アイドルになるんだから、友達を選び、夜遊びをせず、あいさつはキチンしなさ

      いとか。そうですね、暴力団関係者、暴走族の交際を避けること、そんな話

              もなりました。

 記者   マネージャーさんね、たいへん申しにくいんだけど、あなたが康子さんにその場

              でボーイフレンドと別れるよう言ったから、それを悲観して自殺したんじゃな

              いか、という見方があるんだけど、その話は本当なの?

 M氏   それは絶対ないです。そんな話はしていません。康子は友達が多く、近所に男友

              達はいましたが、それお母さんもよく知っているボーイフレンドです。家族ぐる

              みの付き合いで別れる別れないの関係じゃないですよ。

 記者   え〜、なになに、そのボーイフレンドというのは単なるお友達なの? もっと

              密な男がいたって話があるんだけど、その彼は把握してないの?

 M氏   もちろん、ぼくは康子をいつも見ていたわけでないので知らないこともあります。

              ウチの方針としては、もしそんな恋人がいたとしても仲を引き裂くなんてこ

      しません。むしろ、その男性をスタッフの一員として迎え入れるつもりでいまし

              た。「彼がいるなら彼を含めて応援態勢を作ろう」と。そのことは本人に伝えま

              した。

 

 アイドルを売り出す際、仮に恋人がいた場合、プロダクションが相手に手切れ金を渡して別れさせる方法もあるが、それはリスキーな工作と言える。懐柔策として手っ取り早いのは、恋人をスタッフとして働かせたり、ファンクラブの会長に祭り上げ、味方につける方法だ。

 

 M氏  あの日、お母さんのほうも「皆さんが一生懸命頑張ってくれているんだから迷

               惑かけちゃダメよ。好きな人がいるなら、隠さないで教えなさい」と康子に

               言いました。しかし、彼女のほうからは何も言ってこなかった。ですから、彼

               女にはそんな相手がいなかったと解釈しました。

 記者  なるほど。あなたが話している間、康子さんは落ち込んでたとか普段とくらべ

               ておかしい様子はなかったの?

 M氏  いや、みなさん、いろいろと推測しておられているようだけど、和気あいあい

               とした雰囲気でしたよ。さっきも言いましたように「挨拶はきちんとし、男友

               達との交際は節度をもち、夜遊びはいけない」。そういう話です。ボーイフレ

               ンドのことを含めて、一般的な礼儀作法とかに関する注意でした。しかしそれ

               は兄貴として言ったことであり、彼女を信頼していました。康子はいつものよ

               うに「ハアイ」と言って私の話を聞いていました。まったく異常は見られなか

               った。最後には「わかりました。これから一生懸命がんばります」という彼女

               の返事を聞けたので、それでぼくは店を後にしたんです。

 

 M氏の発言にかすかに相づちを打ちながら、ヒラタオフィス社長のS氏がマイクを取る。

 

 社長  あの日の前日、お母さんから電話がありました。最近、康子さんの素行という

               か何か変わってきていると感じるので、デビューも近いし、仕事とはこういう

               ものだと、もう一度話してやってほしいとのことでした。それで、デビューに

               あたっての心がまえを話しあったんです。芸能事務所としては、アイドルのデ

               ビューですから礼儀作法や異性の付き合いについて、きちっとしなさいという

               のは当然だと思います。お母さんの話では「このところ、夜の帰宅が遅くなる

               のが何回かあった」というので、注意したり、デビュー後にことが起こっては

               いけないので、異性問題をきちんとしなさいとかは言いました。

 記者  康子さんの素行が変わってきて、夜が遅くなったというのは? 交遊関係に問

               題があったんですか? 

 

 M氏が話に割って入る。

 

 M氏  あの日、確かに康子の帰宅時間が遅いことが話題になりました。彼女には夜学

               に通う友達が多く、遅い時間にしか会えません。すると終電車がなくなってか

               ら、お母さんに「これからタクシーで帰るけどお金がないから、家の前で待っ

               てって」と電話してきたそうです。ここ最近はそんなことがあり、お母さんも

               少々手を焼いていたようです。だから、ぼくが康子に「デビューまで2か月な

               んだから、それぐらいガマンしなくちゃだめだよ。お母さんも仕事しているの

               に、心配させちゃだめじゃないか」と注意したんです。

 

 再び、S社長が続ける。

 

 社長   ですから「男友達と別れろ」ということは絶対言っていません。暴走族と付き

              合ってたとか言われていますが、それは暴走族らしき人から「おーい、康子」

              と声をかけられて、それが友達だったら、気軽に答えますよね。でも、これか

              らは気をつけなければダメだとは、マネージャーから言ったらしいですが。や

              っとここまでこぎつけ、もうすぐという時だったのに。ボクら狐につつまれて

              いる感じです。デビュー前だし、男女関係も何もないですよ。デビューした後

              に売れなくて悩むならともかく、悩みがあるならひとこと言ってほしかった。

 

 リバスター音産の副社長である橋幸夫が口を開いた。

 

 橋    レコードの原盤はできあがっていました。プレス前だったのを急遽中止にしま

              した。レコードを発売するつもりはありません。

 記者   プロデューサーである橋さんは自殺の兆候を感じられませんでしたか? 

 橋    まったくわからない。言われるような異性関係はまったく思いあたらないし、

              男友達の仲を引き裂こうとしていたこともないですよ。 彼女は気丈夫で分析力

              のあるコだった。今年の目玉新人として売り出す方針でした。私が「中山美穂

              を追い越せ」とハッパをかけたら、「ハイッ!」と明るく元気に言っていたん

              です。物をはっきり言うコで、「ぜったいやってやるんだ」とはりきってい

              のに...いまだに信じられません。今後の新人育成のこともあり、レコード会

              としては原因を究明したい。

 

 この日、記者の目には演歌の大御所が小さく見えた。記者はS社長に質問する。

 

 記者  葬儀ではお母さんが「私が悪かった」と泣いていたおられましたが、マネー

               ジャーさんが帰った後で康子さんとお母さんの間で何かあったんでしょうか?

 社長  お母さんは父親の役目をしなければならなかったし、多少キツイことを言った

               かもしれません。

 

 社長のその言葉に続き、橋幸夫が言った。

 

 橋   お母さんも〝なぜ〟という思いでいっぱいで、「私が悪かった」と言ったのは、

               自分を責める気持ちからで、特別な理由はないでしょう。あの日は、康子さん

               の生理がきつかったし、正常な状態じゃなかった、とも聞いています。17歳と

               いう年齢は、大人にとってはちょっとしたことでも、大変なことと思いつめ

               しまうこともある。発作的なのか、彼女自身もわからなかったのでは...。

 

 

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