第5章

 

IN THE DISTANCE

 

 

 

 

 

遠藤康子が生歌を披露した場所

 

 

  1986年3月24日。 

 遠藤康子は久しぶりに母親のH子と外出した。この日は月曜日。夜には母親の古くからの友人が経営する銀座のクラブで、開店20周年パーティーが開かれる。康子は社会勉強のつもりで母親に付き添った。

 店に着くと、エントランスはスタンド花で埋めつくされていた。ボーイに導かれて店の中に入ると、本日の主役・真由美(仮名)がにこやかに二人を出迎える。

    「おめでと〜。20年って、あっという間だね」H子は懐かしい友人と手を取り合った。

 光彩を放つ京友禅の着物に身を包んだ真由美。母親と同じく中年だが、20代後半といってもおかしくない。その若さを意外に思ったが、それを維持するために元手が相当かかっていることが康子にも想像できた。彼女は持っていた花束を真由美に手渡した。

  「あら、こちら、お嬢さんね。カワイイ!」 真由美は声を上げた。

    「それにスタイルもいいわね〜」 康子の頭から足先まで値踏みするかのように見る。

   康子の装いは、ニコルの黒いワンピース。丈は短く、ひざ下から伸びた筋肉質の脚がブロンズ色に輝いている。自分ではそれほどしゃれたつもりはないが、康子の素材の良さを引き立てた。まわりにいたホステスたちは康子の弾けんばかりの肉体に目を見張った。

  「いえいえ。私なんかフツーですよ」康子はこの手の世辞には慣れていた。

     「デビューするんでしょ。お母さんから聞いてるわよ。ねぇ、カラオケもあるから歌ってよ」

   「ママ、どうしようか? デモテープもあるし、せっかくだから歌っちゃおうかな」

   H子は友人に祝辞を述べたら店を早々に立ち去り、あとは娘とショッピングでもするつもりでいた。その後は二人で美味しいものを食べよう。彼女は何よりも娘との間にできたベールを解きたかった。康子がここで歌うことでそれが叶うなら目的を果たしたことになる。

   

 中年ホステスの祝いの席に、突如現れた少女歌手に招待客は驚いた。しかし、その愛らしいルックスに客たちは大きな拍手を送った。

 ゆっくりとお辞儀した康子は、中森明菜の『十戒』をフリをそっくりマネて歌ってみせた。

  「今度デビューすることになった遠藤康子です。精一杯歌いますので聴いてください」

   康子は歌詞を間違えることも音程を外すこともなく、デビュー曲『IN THE DISTANCE』を歌い切った。もっとも発売前のことで、少々トチッたとしても誰も気づかない。母親は、衆目で臆することなく歌う娘の勇姿に目を細めた。

 こうして『IN THE DISTANCE』は人前で披露された。それは最初で最後の出来事となった。

 クラブから出ると外はすっかり暗くなっていた。H子は康子と近くの喫茶店でコーヒーを飲むことにした。

  「ねぇ、ママ。銀座の女の人にキレイな人はいないね」ガラス越しから街並みを眺めながら康子はポツリと言った。

    「そうだよ、ヤッコが働いたらナンバーワンになっちゃうね」母親は娘がはるか彼方にいるように思えた。

 

 

 

 

 

意外性に満ちていたデビュー曲『IN THE DISTANCE』       

    

 

 お蔵入りとなった遠藤康子のファーストシングル『IN THE DISTANCE』は、果たしてどんな曲だったのか。

   プロデューサーの橋幸夫は、彼女を「従来のヤング路線とは違った、年齢より大人びたアダルト路線のアイドルとして売り出す」と語っていた。「従来のヤング路線」とは松田聖子、中森明菜の2大巨頭のほか、菊池桃子、中山美穂、斉藤由貴、南野陽子、おニャン子クラブなど1986年当時、旬だったアイドルを指していたと思われる。

 それにしても、「アダルト路線」と聞くと、セクシーな衣装を着て、「アッハ〜ン」とか「ウッフ〜ン」とか吐息まじりに歌う姿を連想してしまう。しかし、その手の「お色気路線」という意味でなく、「ぶりっ子路線とは対局にある」という意味での「アダルト路線」と言ったのだろう。それを考えると康子のデビュー曲は、聖子タイプのポップス路線ではなく、明菜タイプの歌謡曲路線だったのでは? と思うはずだ。

 ところが、意外なことに橋幸夫が思い描いた「アダルト路線のアイドル」は、彼が活躍した演歌・歌謡曲ではなく、ロック、ジャズといった洋楽をベースにしていた。

 作曲を担当したのは、フュージョンバンド『カシオペア』のベーシスト・桜井哲夫(現・櫻井哲夫)。編曲は、松田聖子の『あなたに逢いたくて〜Missing You〜』の編曲を手掛け、一躍有名になったギタリストの鳥山雄司。作詞は、菊池桃子の『夏色片想い』、浅香唯『STAR』などを書いた有川正沙子がつとめた。こうしてできたのが『IN THE DISTANCE』だった。

 実は『IN THE DISTANCE』は、桜井哲夫が自身のアルバム『DEWDROPS』の中で、セルフカバーされている。『DEWDROPS』は彼のソロデビューアルバムで、遠藤康子が亡くなって約3週間後、1986年4月21日に発売された作品だ。

 

 自身がボーカルをつとめた、桜井哲夫バージョンの『IN THE DISTANCE』は美しいピアノの旋律で始まり、続いてボサノバ調のギターが流れてくる、しっとりとしたバラードだ。サウンド的には80年代に流行ったAORとかシティポップの印象。

 歌詞は〝遥か彼方〟ニューヨーク在住の知人カップルに思いを馳せる男性のモノローグ。

 雨上がりのテラスに座り、苦いコーヒーを飲む〝俺〟。朝刊をひろげると、届いたばかりのエアメールが落ちる。差し出し人は〝あいつ〟。

    「元気ですか」いかにも〝あいつ〟らしいキマリ文句で手紙は始まる。

 〝あいつ〟はどうやら〝俺〟の友人らしい。その手紙によって、〝あいつが今はニューヨークにいて、〝彼女〟と仲良く暮らしていることを思い出す。

 その〝彼女〟はその昔、この二人と三角関係にあり、最終的に〝俺〟ではなく〝あいつ〟を選んで、外国に旅立ってしまったことを匂わせる。

 〝俺〟のほうは、あいかわらず一人暮しだが、今では〝彼女〟のことも許している。だから、こんな幸せそうな手紙を寄こして刺激するなよ、と〝俺〟は言う。

    するとエアメールの最後に一言、こう書いてあった。

    「四月に別れた それだけしらせたかった」

    それを見た〝俺〟は、曲のラストをこう締めくくる。 

 「グレイの空だけ  しばらくながめていたよ」

 

   ジャージーかつアーバンで、今ドキのカフェでかかっていても不思議でない気怠いテイスト。テンポはスローでサビらしい、サビもない。聴衆が手拍子したり、親衛隊が叫んだりするのには似合わない曲である。アイドルのデビュー曲としては異色だろう。

 歌詞の内容も1回だけ聴いただけでは、何について歌っているのか、理解しにくい。

 ニューヨークから届いた友人の手紙で、ほろ苦い過去の思い出に浸り、さて、俺はこれからどうしようかと想いを馳せるストーリー。友情について歌っているように聴こえるし、昔の彼女と寄りが戻りそうな余韻を残すラブソングでもある。17歳の少女が理解するにはもう少し人生経験が必要かもしれない。

  同時代のアイドルのデビュー曲と比較してみると、例えば、当時高校生だった斉藤由貴には『卒業』をテーマにした学園ソングが用意された。中山美穂の『C』にいたっては、山口百恵の『ひと夏の経験』を踏襲した定番中の定番、処女喪失ソングである。

 そういう直球すぎる楽曲と比べると、遠藤康子の  『IN THE DISTANCE』は噛めば噛むほど味が出てくるタイプの作品だ。

 強いて言えば、シティポップ路線だった菊池桃子の楽曲に似ているかもしれない。桃子はアーバンなサウンド&リリックが特徴で、〝僕は〜〟とか歌って、男性の心象風景を描くことは少なくなかった。

   桜井盤の歌詞は〝俺〟となっているが、遠藤盤の歌詞は〝私〟になっていて、女性の心象風景を描いていた可能性は捨てきれないが...。

 

 ちなみに、前述した中山美穂が作ったという遠藤康子への追悼ソング『LONG DISTANCE TO THE HEAVEN』であるが、『IN THE DISTANCE』のアンサーソングではないことがわかる。美穂の曲はオマージュであって、サウンドやリリックは『IN THE DISTANCE』の雰囲気を踏襲していないに等しい。

 いずれにしろ、遠藤康子のレーベルメイトで同期の井上千鶴のデビュー曲もそうだったように、アイドルの曲というよりニューミュージックの範疇で、このサウンドが康子のややハスキーな声質とどう絡みあったのかは想像するしかない。

 アイドルの曲としては異色だが、ひょっとしたらケミストリーを起こしていたかもしれない。この曲を歌唱力のあるプロのボーカリストが歌ったら当たり前すぎる。あえて、遠藤康子のような素人にぶつける。それを見たかった。

 私論だが、往年のアイドルソングの良かった点は、優れたアーチストが提供した楽曲を、シンガーとしては未熟な10代の女のコたちが、素っ気なく、時には素っ頓狂に歌っていたところにあった。それが私にはどうにも甘く、切なく聴こえるのだ。

 桜井バージョンの『IN THE DISTANCE』は確かに素晴らしい。しかし、それは桜井哲夫というプロのミュージシャンのスキルに感嘆しているに過ぎず、やっぱり遠藤康子バージョンを聴いてみたかった。

 私がアイドルに求めるのは歌唱力ではない。歌唱力を求めるならば別のジャンルに行けばよい。アイドルに求めるのは〝うたごごろ〟だ。思春期の揺れる乙女ごころと言ってもよい。

 17歳で天国へ旅立った康子はそれを持っていたに違いない。

 

 

 

 

 

 

B面は『テレフォン』だった

 

 

 

 

   BP        歌手としてデビューしたらどんな曲が歌いたい?

   康子  アイドルっぽい曲じゃなくて大人しめな曲がいいですね。斉藤由貴ちゃんの

             『白い炎』が好きです。『スケバン刑事』の宣伝しているわけじゃあ無いです

               けど、あの曲好きですね。

 BP        将来は歌手と女優のどっちに魅力を感じますか。

   康子    どちらも魅力ありますね。歌にはあんまり自信はないですけど。

                                                  

                                                             『Beppin』(英知出版)1985年11月号 

 

  

 

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   康子      今度すばらしい康子の唄が出ますので応援して下さいね。

                                                      

                                                             『すっぴん』 (英知出版)1986年5月号

   

 

 女優志望だった遠藤康子は、音楽や歌手活動についてのコメントは多くない。好きな曲としては斉藤由貴の『白い炎』をあげていた。亡くなる6日前、母親の知人が経営する銀座のクラブで、康子が持ち歌の『IN THE DISTANCE』と中森明菜の『十戒』を歌ったことがわかっている。

 『白い炎』と『十戒』の2曲だけでは彼女の音楽の嗜好を断定できないが、マイナー調の情熱的なバラードが好みだったようだ。『IN THE DISTANCE』はそれらとは違ったタイプのバラードだが、康子は貰った曲を気に入り、「すばらしい」と評していた。

    歌唱力はそれほどでもなかったようである。「歌にはあんまり自信はない」と言っている。

   これまた私論だが、アイドルソングに限って言えば「歌に自信がある」タイプより「歌に自信がない」と言って、歌手活動を振り返りたがらないタイプのほうが、名盤を残していると思う。いかにも喉を鍛えてます的にコブシを効かせて歌われるより、へたっぴなりに素直に歌ってくれるほうが、泣けるのである。だからこそ、康子が遺した歌声に興味がある。

  

 「曲のテープができて初めて聞いた時、あんなり歌が上手になったんでびっくりしたんです。ここまで歌えるようになるには、さぞ大変だったと思うんですね。家ではそのテープをよく聴いていました。カセットをもって、壁にもたれる姿がなんとも雰囲気で、おそろしくて声をかけづらいほどでした」(母親の証言)

   母親によれば、康子の様子がおかしくなった死の1か月前、つまり1986年2月ごろにはレコーディングが終了し、コピーテープを渡され、彼女はそれを自宅で聴いていた。

   ファーストシングル『IN THE DISTANCE』のB面、つまりカップリング曲の話も興味深い。

   「康子はA面よりもB面の『テレフォン』という曲にすごく陶酔していました。『あんた、感情が入りすぎているわね』といいましたら、『会社でもいわれたの。A面の方が大事だから、B面はいい加減に歌えばいいんだっていわれちゃった』って」(母親の証言)

 B面は『テレフォン』という曲だった。

 「遺書はなかったですが、康子の手帳が出てきたんです。『私は強くない、守ってくれるものがほしい』とか書きつけてありました。手帳の内容が『テレフォン』の詞に似ているんです。あの子はこの歌の世界にのめり込んじゃったのかしら、と思っているんです」(母親の証言)

   康子は、B面の『テレフォン』の歌詞「もらい手のないハートよ   今ならみんな海に返せるわ   とり戻せない愛ならこのままそっとねむらせて」という歌詞に心酔していたという。

 当時の報道の中には、『暗い日曜日』現象(1930年代にハンガリーの曲『暗い日曜日』を聴いた者が相次いで自殺したという)のように、康子がデビュー曲『IN THE DISTANCE』の歌詞に影響されたのでは? と論じるものがあった。

 『IN THE DISTANCE』に「もらい手のないハートよ   今ならみんな海に返せるわ   とり戻せない愛ならこのままそっとねむらせて」という歌詞はない。報道はB面の『テレフォン』の歌詞と混同していたのである。

 『テレフォン』は康子の死の謎を解くミッシングピースだ。

 

 

 

 

 

 

消えた原盤 リバスター音楽産業の倒産

 

 

 

 「うちとしては今年デビューさせる新人の中で一番押したい期待の新人でした。先週の金曜日(1986年3月28日)に、うちが委託販売をお願いしているポニー・キャニオンさんのセールスマンの前でもヤッコは元気に抱負を述べていたくらいです」(リバスター音産副社長・橋幸夫の証言)

 

 5千万円の宣伝費をかけ、ポスター、パンフレットといったプロモーション材料も刷り上がっていた遠藤康子のデビュー曲『IN THE DISTANCE / テレフォン』。原盤はできあがり、あとはプレスされるだけだった。歌い手の少女が急死したことにより、発売中止が決定。

   リバスター音産が康子の死からようやく立ち直ろうとしていたころ、同社のアイドルグループ『セイントフォー』をめぐって内紛が持ち上がる。

   1986年8月、グループが所属するプロダクション『日芸プロジェクト』の副社長が会見を開き、「プロデューサーの橋幸夫を横領・詐欺罪で告訴する」と発表した。

   日芸側の言い分は、リバスター音産には未払いのレコード印税があり、レコード発売中止によってコンサート活動やテレビ出演ができなくなったことへの賠償責任がある、ということだった。

 名指しで非難された橋幸夫は「印税はレコード制作費と相殺した」と反論したが、翌1987年、副社長の座を解任される。

   それから5年後の1992年、東京佐川急便事件が発覚する。

   東京佐川急便事件とは、佐川急便の子会社『東京佐川急便』から政治家、暴力団、右翼などに数千億円もの闇資金が流れていたことが判明し、逮捕者を出した事件だ。

   リバスター音産は、佐川急便の佐川清社長が熱狂的なファンだった橋幸夫を副社長に据え、1982年に設立された会社と言われている。

    同社の歌手第1号はアイドルの 井上杏美(現・井上あずみ)で、彼女のデビュー曲『Star Storm』は「不作の83年組」が残した名盤のひとつである。井上は後に『となりのトトロ』の主題歌を歌い、アニソン歌手としてブレイクする。

 リバスター音産は、他のレコード会社に比べると所属アーチストの絶対数が少ない。「厳選しているのだ」と言われればそれまでだが、東京佐川急便事件が発覚後、その理由が垣間見えることになる。

 この会社が、そもそもレコード制作事業ではなく、東京佐川急便同様、裏金を隠すために興されたダミー会社だった疑いが、マスコミによって明らかにされたのだ。

 こうして東京佐川急便事件発覚から1年後の1993年、 遠藤康子が吹き込んだ原盤とともリバスター音楽産業株式会社が消滅する。

 

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