第4章

 

ボーイフレンドたち         

   

 

 

 

 

男友達は12〜13人

 

 

 

 

 

     SP      結婚して子供ができるとしたら何人欲しい?   

         康子      まったく考えていません

             SP      今、好きな人はいますか?  その人は誰

               康子      ?   ?

                   

                                                      『すっぴん』(英知出版)1986年5月号

 

 

 デビュー前のアイドルに〝身辺整理〟を言い渡すのは芸能界の常識だ。当時、渡辺プロダクションやホリプロのような大手プロダクションでは自社の寮に入ることを義務づけていたし、サンミュージックの相沢秀禎社長などは、自宅に住まわせてタレント教育と管理を徹底していた。

 遠藤康子の自殺の動機は「男友達と別れるよう、大人たちから説得され、それを苦にした」という見方が大多数だった。しかし、プロダクション社長、担当マネージャー、橋幸夫、遠藤康子の母親....彼女の身近にいた人々は、その説を否定している。そもそも「男友達と別れるよう、強要していない」という。

 大人たちが彼女に言ったのは、要約すると「男友達はいてもかまわない。しかし、彼らとは節度を持って付き合いなさい。もし、恋人と呼べるような男性がいれば、彼を含めた応援態勢をつくる用意があるから、隠さずに教えて欲しい」ということだった。

 男友達と恋人の違いは難しい。ボーイフレンドとは読んで字のごとく男性の友人である。康子には男友達がいたのか? と問われれば答えは「イエス」だ。彼女は非常にオープンな性格で、男友達が多かったという。

 「ボーイフレンドが12〜13人といて、仲良くなると相手をすぐに家に連れてきて紹介するので、全員知っていた」(母親の証言)

 康子は女性よりも男性といるのを好んだ。そう書くと、いかにも〝恋人多き女〟と思われるが、彼女の場合、同性より異性とつるむほうが性格的に合っていた。

 普通の女のコにとって康子は羨望と嫉妬の対象だったはずだ。芸能活動をする女のコが、学校で好奇の目で見られ、時にはいじめられることもある、という話はよく耳にする。

 「男のコのほうが(芸能活動を)応援してくれて、気楽に付き合えましたね」

 以前、取材で会った元アイドルの木下沙羅(仮名)が私にこんなことを言った。80年代末にローティーン・ファッション誌の専属モデルに抜擢された木下は、90年代に入るとアイドルとしても活躍。中学時代の木下は同じ学校の女子から嫌がらせを受けたという。自分が出ているファッション誌を目の前でビリビリと破かれたり、校内を歩いていると上から唾が降ってくることがあった。

 「そういうストレートな嫌がらせは、派手なグループのコがするんですけど、仲良くしていた女のコが、『木下はヤリマンだよ』って言いふらしていたこと知った時には人間不信になりました。中学の時は処女だったし、ざけんなよと(笑)」 

 話を遠藤康子に戻そう。彼女には同性の友達が少なかったことをうかがわせる発言がある。

 

 

 

    男のコは甘えさせてくれるタイプの人が好き。でも今はいないんです。それより

   女のコの友だちのほうが大切。彼女、はじめての親友なの。ずっとモデルの仕事し

         てたので、お高くとまってるように思われていたから......。

                     

                『平凡パンチ』(マガジンハウス)1984年8月27日号

 

 

 中学時代の1年先輩も事件直後にこう証言していた。

 「ついこのあいだ私が女の子とワイワイやっているときすれちがったのね。そしたら後で『先輩がうらやましい。いつも女の子と楽しそうにしてて』っていうの。確かにボーイフレンドも沢山いたし、人気もあったけど、ほんとに話せる女の子の友達がいなかったみたい」

         

 

 

 

 

 

恋人だと認知されていたK大学生のTくん

 

 

 

 遠藤康子の大勢のボーイフレンドの中で、特に親しかった男性を「恋人」「彼氏」と呼ぶなら、第三者から見れば、そう称されてもおかしくない人物がいた。

 それは近所に住むTくんという大学生だった。彼は当時20歳で、K大学の2年に籍を置いていた。彼は吉川晃司に似た、身長180cmのハンサムボーイで、お似合いのカップルとして周囲も二人のさわやかな交際ぶりに声援を送っていたという。告別式の後にリバスター音産で開かれた記者会見で、担当マネージャーが語った「お母さんもよく知っているボーイフレンド」は、このTくんのことだった。

 彼は告別式にも姿を見せた。葬儀場所の戸外に集まった数十人の友達の中で、Tくんはその輪から離れ、手を前に組んだままうなだれていた。

 「あの人がヤッコの彼氏だよ」

 康子の友人から情報を聞きつけた記者は、告別式の2日後、Tくんの自宅を訪ねてインタビューを敢行している。

 「彼女とは家も近く家族ぐるみの交際でした。自殺の原因はまるでわかりません」と突然のガールフレンドの死について「信じられない」とショックの色を隠せないTくん。

 彼が康子と出会ったのは彼女が亡くなる約1年前。共通の友達を交えて遊ぶうちに、お互い惹かれて付き合い始めた。彼の運転する車で海に行ったり、ロードショーを観たり、彼が言うには「普通の交際」だったという。そういえば彼女は「映画好き」を口にしていた。

           

 

 

                     あー、『セカンドチャンス』観てないですか⁉   ゼッタイ感動っしますヨッ!(中略)    

        でも、(恋人は)いないんです。私、甘えん坊だから、3歳以上年上の人がいいんだけど。

                   

                                                                  『ペントハウス』(講談社)1985年12月号

 

 

   特にお気に入りだった映画が、ジョン・トラボルタとオリビア・ニュートン=ジョンが共演した『セカンドチャンス』だった。この映画の日本公開は1984年6月だから、Tくんとの交際時期とはズレるが、「3歳以上年上の人がいいんだけど」の発言は、時期的にも彼と仲良くしていたことをほのめかしている印象を受ける。

 「恋人はいません」発言はアイドルの定石だ。仮にインタビュアーに「彼氏はいます!」と正直に言ったとしても、オフレコ扱いされ、誌上に掲載されることはない。ただ、載せる側としてもすべてを創作できない。「彼氏は3つ年上の大学生」と打ち明けられた場合、「彼氏はいないけど、3歳以上年上の人がいい」とフィルターをかけて掲載される可能性がある。

 それはともかく、Tくんと康子は美男美女のカップルに映った。

 「ほんとにぼくも彼女を愛していました。男としてはっきりいいます、ほんとに心から愛していました」

 Tくんは康子への「愛」に口にした。彼女も彼のことを「好きだった」のだろう。しかし、彼と交際していた時期の彼女は、特定の男性と愛を育むには極めて不利な状況に置かれていた。すでに新しいプロダクション『ヒラタオフィス』に移籍してから、およそ半年が経過し、『mcシスター』のレギュラーモデル、CM、グラビアの撮影にと大忙しだった。同社イチ押しの工藤夕貴に続く、アイドル候補になっていた彼女は『DELUXE マガジン』『モモコ』といった男性誌へ登場する回数が増えた。

 1985年6月にはドラマ『奥様は不良少女⁉  おさな妻』で女優デビューし、その後『'85年型 家族あわせ』『スケバン刑事』といった連続ドラマの収録もあった。さらに歌手デビューすることが決まり、歌、踊りのレッスンと多忙な日々を送っていた。

 忙しさに相殺されていく毎日の中で、彼女は恋愛の対象よりも「ほっ」とできる〝やすらぎの場〟を探していたのではあるまいか。父親を4歳で亡くした康子にとって年上の男性がそばにいることが必要だった。康子の母親の言葉を借りれば「ヤッコがお兄ちゃんと慕っていた男性」。それがTくんだった。

 「Tちゃんはもちろんよく知っています。ヤッコの仲良しグループの1人で、家もすぐ近くなので、お互いに遊びに行ったり来たり、Tちゃんがいなくても、ヤッコがTちゃんの家に上がり込んでTちゃんのお母さんやおばあちゃんと話し込んでくるような仲でした。フランクなお友達で別れるとか別れないの関係じゃありません」(母親の証言)

  彼女と会えない日々が徐々に増えるにつれ、Tくんは不満にならなかったのだろうか。それに対して彼はこう答えている。

 「それは少し、さみしいという気もちもありました。しかしそれだけに彼女と会ったときは楽しさも大きかったですから。喧嘩なんかしたこともあります。でも...そんなのは若いふたりにとっては、どのカップルだって当然と思うし...」

 Tくんは果たして康子の恋人だったのか。

 「たしかに仲はとてもよかったけど、2人きりでデートするという関係じゃなかったんです。最後に会ったのは、2月の中旬ころ。いつもと同じで、とても明るく...まさかあんなことになるとは。悩みがあったんなら、ひと言相談して欲しかった。相談してほしかった。相談してくれたら...」

 彼は、こう言って、二人の関係がまわりが思っているほど親密なものでなかったことを告白している。1か月以上も会えず、悩みも打ち明けてもらえなかった。その関係は〝友達以上、恋人未満〟。

 Tくんは康子にとって近所のお兄ちゃんだったのだ。

 

         

 

 

 

 

消えたミュージシャンの同級生Gくん

 

 

 

 

   遠藤康子には「恋人」と呼べるような男性がいたのか? マスコミが、Tくんという近所に住む大学生に注目する中、Tくんとは別の男にまつわる噂が浮上していた。

 その噂とは「ミュージシャンの恋人がいた」というもの。そのミュージシャンの名前を仮にGくんとしよう。彼はバンドをやっていたが、メジャーデビューどころかインディーズデビューすらしていない無名のアマチュアミュージシャンだった。康子とGくんは、通っていた都立A高校定時制で知り合った。歳は彼女よりも1つか2つ上。先輩に当たるが、定時制高校なので同級生といってもよいだろう。

 「二月ごろ、夜の六本木で、その彼とデートしているのをよく見かけています、何でも一年ぐらいの付き合いがあると聞いてますけど」(アイドル誌関係者)

 「彼女は、ミュージシャンを目指してアマでやっている高校生の男の子とつきあっていたみたいですね。週に2回ほど、六本木でデートしているのをモデル仲間が目撃しているんですよ」(芸能関係者)

   「六本木で男性と一緒にいるところを見た」という情報が、康子の死後、複数の人物から寄せられている。目撃された時期は1986年2月ごろで、それはちょうど彼女が高校を自主退学した直後に当たる。学校で会えなくなったぶん、二人は繁華街で逢瀬を重ねていたのだろうか。2月ごろといえば、康子の母親が度重なる娘の深夜の帰宅を心配していた時期とほぼ一致する。母親が帰りが遅い理由を聞くと、康子は「定時制の友人と会おうとすると、どうしても夜遅くなってしまう」という返事をした。友人はGくんだった可能性が高い。

   自殺の直前におこなわれた打合せでも「深夜の帰宅」と「恋人の存在の有無」について話が及んだ。

 「恋人と呼べるような男性がいれば、彼を含めた応援態勢をつくる用意がある。隠さずに教えて欲しい」というマネージャーの問いに、康子は恋人が「いる」とも「いない」とも答えなかった。大学生のTくんは、母親、マネージャーが公認するボーイフレンドだったが、高校の同級生であるGくんの存在は、寝耳に水だったようだ。

 Gくんが「遠藤康子の本命の恋人だった」と目された理由がほかにもある。康子が飛び降りた現場のビルの屋上に残したイヤリングだ。靴でもなく遺書でもなく、イヤリングを残したというのも「それがGくんのプレゼントされたものだったからだ」との見方をされたのだ。

 母親のH子さんは「イヤリングは私が買ってあげた物だ」と反論していたが、Gくんはそれに反論することもなかった。

 騒動の中、彼は消えたのである。

 「この男の子(A高校の同級生でミュージシャンの卵)は、今、彼女の叔父さんの家にかくまわれている。マスコミに知られて大騒ぎになるのを避けるためにね」(学校関係者の証言)

   マスコミはなぜか、このGくんを追求しなかった。それは彼が当時まだ未成年だったことに配慮したからだと思われる。

 

 

 

 

 

 

暴走族交際説

 

 

 自殺の原因を「恋人と別れるように言われたから」と見る一方で、こんな説を唱える記事もチラホラあった。遠藤康子には「暴走族のボーイフレンドがいて、『別れるなら、2人の間の秘密の写真をばらまく』と脅され、ずっと悩んでいた」という説だ。

 いかにも出てきそうな説である。というのも、康子の事件が起こった80年代半ばは、『フォーカス』(新潮社)、『フライデー』(講談社)をはじめとする写真週刊誌が、芸能人のスキャンダルを次々とすっぱ抜いていった時期だったのだ。実際に「秘密の写真をばらまかまれた」アイドルも少なくなかった。

 『フォーカス』1983年6月24日号に掲載された高部知子の写真に世間は度肝を抜かれた。そこにはベッドで布団にくるまり、タバコをふかす高部の様子が写し出されていた。

   高部知子といえば、バラエティ番組『欽ちゃんのどこまでやるの』(テレビ朝日系)の三姉妹〝のぞみ・かなえ・たまえ〟の長女たまえ役として1番の人気を誇っていた女のコ。その余波をかって、三姉妹がわらべ名義でリリースしたデビュー曲『めだかの兄弟』も大ヒットしていた。まさしく人気絶頂期に流出した写真で、その衝撃は凄まじく、芸能界をゆるがす大事件へと発展していった。

 写真を売ったのは高部の女優としての才能が高く評価されたドラマ『積み木くずし』(TBS系・1983年2月15日〜3月29日放映)に暴走族の一員としてエキストラ出演した18歳の無職少年だった。当時15歳だった高部のほうから声をかけて二人の交際がスタート。密会場所はいつも高部の住むマンションで、少年の証言によると「彼女はセックスの経験は豊富のようで、タバコの吸いかたも堂に入っていた」ということだった。

 確かに写真は〝コト〟が済んだ後の様子のように見える。すでに女の喜びを知った15歳のアイドルの姿。そんな物が世に出まわることは前代未聞のことだった。

 〝芸能人ニャンニャン写真〟の第1号となった高部知子の事件は、喧嘩別れした腹いせに少年が『フォーカス』に写真を売ったことで発覚したスキャンダルだった。2か月後、この少年は自分のしでかしたことの重大さ、バッシングに耐えかねて、車に排気ガスを引き込んで自殺してしまった。康子の同級生Gくんへの追求が弱まったのも、高部の元恋人で未成年の自殺に対するトラウマがあったように思える。

 およそ1年間の謹慎処分を経て、芸能界に復帰した高部知子は、ドラマの主演、ソロでの歌手デビューを果たすが、かつての人気を取り戻すことはなかった。

 

 高部ショックの翌年、資生堂モデルで1981年にアイドル歌手として売り出されたこともある横須賀昌美(よこすか・よしみ)のニャンニャン写真が『噂の真相』1984年2月号に載った。

 ベッドで布団にくるまる姿は高部と一緒だが、横須賀の場合は隣に交際相手の男性が仲良く一緒に写っていた。横須賀は当時すでに落ち目で、高部のような大きな反響はなかった。この写真自体は、彼女が1980年冬の資生堂モデルに抜擢された直後にマスコミ関係者にリークされていたが、 大スポンサーである資生堂を配慮して、どの雑誌にも掲載されなかったという。

 横須賀の人気がピークだった1981年に暴露されていたら、大騒動になっていたことは確実で、〝芸能人ニャンニャン写真〟の第1号は高部知子ではなく横須賀昌美になっていた可能性がある。

 さらに衝撃的な写真が『フライデー』1985年4月26日号に掲載された。清純派女優として絶大なる人気を誇っていた沢田亜矢子のトップレス写真が誌面を飾ったのだ。

 写真を撮ったのは、90年代に泥沼離婚劇で脚光を浴びた元夫の〝ゴージャス松野〟こと松野行秀氏ではない。松野氏と知り合うよりも遥か昔、沢田がタレントが脚光を浴び始めたころ、交際していたボーイフレンドが記念に残したものだった。撮影時期は9年前というから70年代半ば、沢田の歌手時代に当たる。

 誌面には「奔放ヌード」「青春のモニュメント」という文字がおどった。沢田亜矢子の写真はカラーで、乳房がはっきりと写っていた。(高部知子、横須賀昌美は写真はモノクロで、内容もヌードではない)。

 沢田は、朝のワイドショー番組『ルックルックこんにちは』(日本テレビ系)の司会者を長年つとめていただけに、視聴者は彼女のことを良識のある女性と思っていた。ワイドショーのメインターゲットは主婦層である。男性の前で淫らな姿をさらす沢田を主婦が許すはずはなかった。所属事務所は被写体の女性を沢田亜矢子だと認めなかったが、彼女は半年後に同番組を降板することになる。

 また、遠藤康子の事件が起こったちょうどそのころ、『フライデー』(1986年4月18号)が、女優・美保純のニャンニャン写真を暴露している。

 全裸の美保が大股開きでポーズを取るショットは、4年前、プライベートで撮られたもの。写真を暴露されたときの美保純は、〝元ポルノ女優〟というレッテルをはねのけ、テレビドラマや一般映画に出演し、地道に芸能界での基盤を築きあげていた。

 写真を売ったのは、デビュー当時から彼女の面倒をみてきた前所属事務所の社長とも、無名時代に交際していた映画監督とも言われた。もともとお色気を売りにした女優だったことあり、美保純のヌード写真は、高部知子や沢田亜矢子ほどの騒動にならなかった。

 それでも美保が〝昔の男〟によって「秘密の写真をばらまかれた」という事実には変わりはない。

 

 こうしたスキャンダラスな出来事が立て続けに起こり、デビュー前のアイドルが突然命を断つという事件が起こったら、世間はどんな反応を示すだろう。「高部知子のように暴走族の彼氏がいたのではないか」「アイドルとしてのイメージを壊すような写真の存在を苦にして自殺したのではないか」と仮説を立てるのも無理もない話だ。

 康子のボーイフレンドの中に暴走族はいたのか? Tくん、Gくんは暴走族だったのか?

 近所に住むTくんに会った記者たちは「噂の暴走族ふうの男性とはほど遠い」「不良っぽい男とは違う」と、いちおうに彼の好青年ぶりを強調していた。彼が通っていたK大学はバンカラな校風で知られるが、Tくん自体はグレーのジャケット、白いシャツを小粋に着こなす、吉川晃司に似た長身の優男だった。芸能レポーターから直撃された彼は「非行少年だ」という一部の報道についてこう答えている。

 「いや、ぼくはそんなにつっぱっていません、いま、この地元にいる幼稚園時代からの友達だって、そんなに悪いやつはいないし...」    

 Tくんからすれば〝何で大学まで行ってまでグレなきゃいけないんだ〟という気持ちだっただろう。彼が暴走族のメンバーであった可能性は極めて低い。

 それではGくんなのか。Gくんは康子が通う定時制高校の同級生で、アマチュアのミュージシャン。六本木で二人のツーショットがたびたび目撃されている。康子の死後、彼はマスコミからの追求を逃れて雲隠れした。

 暴走族ふうの男というのは、実はミュージシャンのGくんで、彼女から別れ話を切り出された彼は逆上し、「写真をばらまく」と彼女を脅していたのではないか。彼が逃げ隠れしたことで、そうした疑惑が強まった。

 「死の直前におこなわれた話し合いで、そんな写真のことなんて全く出ませんでした」

 康子の母親は、そう言って疑惑そのものを一蹴している。

 「暴走族の男友達に脅されていた」という疑惑は、当時の芸能界をにぎあわせていたスキャンダルをミックスした噂話にすぎないと私は思う。あの時代、〝ニャンニャン写真〟ではなかったものの、松田聖子、中森明菜、近藤真彦など暴走族との交友関係を暴露されたり、ツッパリ時代の写真を公開されたアイドルは少なくなかった。

 康子が行きつけだった地元の喫茶店のマスターは彼女の思い出をこう語る。

 「ウチにはよく来ていました。一人で来ることもあれば、四、五人の男友達と一緒のこともありました。男友達の中には髪を染めた子もおり、車も暴走族風のに乗っていました」

 彼女が育った江東区は、都内でもヤンキー文化が色濃く残る街だ。 友人の中に暴走族のメンバーがいたとして不思議でない。

 「下町からアイドルが出る」地元の男のコたちはそう言って康子の歌手デビューを待ちわびていた。そんな彼らが妨害などするだろうか...。

 

 

 

 

 

母子家庭のバラード

 

 

 

 「あんまり疲れているみたいなので『もしかしたら、アルバイト的にモデルをやっていた時の方がよかったんじゃない』と訊いたほどです。『そんなことないよ。モデルはいくら売れても業界内で名前が知れてるだけよ。私は世間の人にわかってもらいたくて、こっちに進んだから』というのが娘の返事でした」(母親の証言)

 

 遠藤康子は芸能界志向がかなり強かった。母親によくこう言っていたという。

 「つらいことがあっても、私頑張る!  絶対有名になってお母さんにマンションを買ってあげるからね」

 17歳にして、康子の収入は大人顔負けだった。アルバイト的にやっていたモデル時代の推定年収は300万円。 CM出演、芸能活動で得られる康子の収入は、喫茶店の経営をメインとする遠藤家の家計に大きく貢献していたと思われる。芸能界へ本格的に進出したのは「女優になる」という夢を叶えるためであったが、「もっと稼ぎたい」「生活を良くしたい」という現実的な理由もあった。

 そんなハングリー精神を持っていた彼女が「男と別れる、別れない」のことで命を断つものだろうか。「歌手デビュー、男のどちらかの取るか?」という二者選択を迫られれば、すんなり男と別れたのではないか。

   中学2年生の時にモデルになって以来、大人たちの環境に身を置いた彼女は、学生らしい生活を送れなかった。ロケのため学校を休みがちになり、彼女ひとり、10日遅れで中学校を卒業。仕事を優先させるため、都立高校の定時制を選んだ。

   高校ではバスケットボール部に所属していたが、1985年5月の時点で練習に1度も参加していなかったという。肝心の授業の出席率も悪く、1年の時に留年した。85年度も高校1年生として迎えた彼女は、2学期以降は欠席のまま。結局、出席日数が足らないということで2度目の留年が決定する。

   「ロケで出席日数が足りなくなったとき注意したら、メモ用紙に『母子家庭のバラード』というタイトルの、お父さんがいないで寂しいという意味の詩を書いていました。康子が泣いたのを見たのは一回だけ。出席日数が足りなくて去年、留年が決まった時です」(高校の担任の証言)

   友人に囲まれ、ワイワイ過ごすのを好んだ康子は、ロマンチックで寂しがり屋で詩を書くのが好きだった。 『母子家庭のバラード』と詩を書いて、担任に情状酌量を訴えた。しかし、歌手デビューが決まり、ますます多忙になっていた彼女は自主退学という道を選ぶ。

  1986年1月中旬、本人が退学の手続きに訪れたという。

 

         

 

 

 

 

霧のベールに包まれた遠藤康子

    

 

 

 1986年4月4日午後。

 康子の母親・H子さんが、事件後に初めてマスコミの前で口を開いた。

 2日前の告別式では「私が悪かった」と泣き崩れていた彼女だが、いろんな噂が飛び交っている状況に耐えかねて、真相を話そうと決心したのだった。会見がおこなわれたのは自宅近くの喫茶店で、友人の中年女性二人が同席。この日、康子をバックアップしていたヒラタオフィス、リバスター音楽産業といった芸能関係者の姿は見られなかった。喪服の上に形見の18金ペンダントをつけたH子さんは、はっきりとした口調で語り始めた。

 

    母親  あの日は、マネージャーのMさんが、私の実家でやっている喫茶店に

      来てくれて、康子と3人で話をしたんです。

   記者      「男と別れなさい」と康子さんに言うための打合せだったの?

 母親       違います。あの日は打合せというより、「デビューするにあたっての

                心構えを康子に話して欲しい」と私からお願いしたものだったんです。

                Mさんは「アイドルになるだからそれなりに自覚を持って行動するよう

                に」というお話をされて...礼儀とか、一般常識とか、そんな話です。

   記者       恋人との別れ話はなかったんですね?

   母親  ないです。「身辺整理」なんて誰も言っていません。康子はいつもと変

     わらず、Mさんの話をウン、ウンとうなずきながら聞いていました。近

     所にいる年上の大学生と仲良くしていましたが、彼とは家族ぐるみのお

     付き合いでしたから、清算なんて間柄でもありませんでしたし。

   記者      お母さん、康子さんにはその大学生の他に誰かと交際していたんじゃな

               いかと言われてるんだけど、娘さんから聞いたことないの?

 母親      確かに私も「新しい男友達ができたんじゃないの?  だったら教えてね」

               と康子に言いました。そしたら「いない。そんな暇はないわよ」って。

               康子はボーイフレンドを連れてきましたから、皆知っていました。もし

               かしたら、私の知らないうちに新しい人ができたのかもしれない、と思

               ったことがありまして。ええ...このところ、娘の様子はヘンでした。

 記者    お母さんは康子さんの異変に思い当たる節があるというわけ? プロダ

     ションとレコード会社は「普段と変わったところはなかった」と言っ

     たんだけど...。

   母親      1か月くらい前から顔色が悪くなって、なにか霧のベールに包まれたよ

     うな感じで。康子はホントに明るいコなんですが、うまく娘の中に入り

     込めなくなりました。私には何でも正直に話してくれて、ディスコやカ

     ラオケに行ったことも隠さなかったのに、ひどく落ち込んで、口もきか

     なくなったのです。

 

 集まった記者たちの表情が真剣になった。

 

 母親  やたら「死」という言葉を口にするようになって...それまでは遠藤周作

               のエッセイ『愛と人生をめぐる断想』など読んでいたのが、『野獣死す

               べし』『戦士の挽歌』(ともに大藪春彦著)『過去(リメンバー)』

             (北方謙三著)などのハードボイルド小説ばかり読むようになっていまし

               た。康子は「死は怖くない」「どうすればカッコよく死ねるのかな」

             「道を歩いていて突然バタンと倒れるのがいいのかな」「ピストルをコ

               メカミにパチンと当てると苦しまずに死ねる」とか話をするんです...

     ゾッとしました。

 記者    ハードボイルド小説ですか...。

 母親  私は、娘がデビュー前で相当プレッシャーを感じているなと思って、

             「ダメだったら時にはいつでもママのところへ戻っておいで」と言いま

               した。すると、康子は「大丈夫だよ、ママ。もしダメでも、私は上手な

               コケ方をするから」って。その返事を聞いて安心しましたが、ハードボ

               イルド小説や「死」を口にするのも、私の知らない誰か、その相手が死

               の美学に傾倒して、娘が影響されているのだろう、と。だから、何度か

               「新しいボーイフレンドができたなら連れてきてね」と康子には言った

               ことがあります。その彼と会えば娘の異変がわかるだろうと思ったの

       す。でも、いつも娘の答えは「いないよ。そんな暇はないし」という

               ものでした。そこでマネージャーのMさんに相談しました。異性関係

               についてではありません。Mさんならば私よりも康子と一緒にいる時

               間が長いから、娘の変化の理由がわかるのでは...と考えたのです。でも、

               彼も気づかなかったということでした。

 記者  お母さんね、康子さんは疲れたんじゃないんですか。まだ17歳ですよ。

               今のお話をうかがった限り、ウツ状態だったように思えるのですが...。

 

 そう記者が指摘すると、H子さんの目からこらえていたものがあふれ出した。

 

 母親  そうです...娘のおかしなことに気づいていながら、何もしてやれなかっ

     た私の責任です。仕事も忙しく休みもなかったし、私が休ませてあげれ

     ばよかったのです。康子は疲れてしまったのかもしれません。娘が私を

     頼るのではなく、私が娘に甘えていたのです。何しろ、私のほうから、

     あの子に相談を持ちかけたりするような間柄でしたから...。私は父親の

     役割はしても母親の役目はしなかったのです。康子が4歳のときに夫が

     亡くなり、働くのに懸命で、私はあのコを抱いてあげた記憶がありませ

     ん。人間形成において、いちばん大切な時期に手をかけてあげられなか

     った。康子は早いうちから大人の世界に入ってしまい、すべてにアンバ

     ランスでした。

 

 肩を震わせながら、彼女は言葉を絞り出した。

 

 母親    私は、あのコのことを分かっていたようで、何ひとつ分かっていなかっ

     た。娘に悩みがあっても、うち明けてもらえない母親でした...。最後の

     「ママ、ゴメンね」という言葉は「ママのバカヤロー」という意味だっ

     たのでしょう。今となっては「私のことを何も分かってくれない」とい

     う抗議だった気がしてなりません。実際、マネージャーさんが帰り、二

     人だけで過ごした20分間で何かあったのはないかと言われていますが、

     何もなかったのです。私は....何もしなかった...。あの時、ただ抱きしめ

     てあげればよかった。お金なんていらない。あのコと一緒にいられる仕

     事を見つけ、もう一度、4歳の康子とやり直したい。

 

 そう言うと彼女は泣き崩れ、そばにいた友人二人に抱きかかえられた。

 

 

 

 

 

 

 

ママ、ごめんね

 

 

 

 プロダクション、レコード会社がおこなった記者会見同様、母親・Hさんの単独会見においても「男関係を清算する」という話し合い自体がなかったことを強調していた。会見では、それまで明らかにされなかった「マネージャーが帰ってから遠藤康子が喫茶店を出て行くまでの20分間」の状況に言及している。母親の証言からその20分間を再現してみよう。

 

 「これからは忙しくなるけど、普通の女のコじゃ経験できない楽しいこともいっぱい待っているんだ。なっ、一緒に頑張ろう」マネージャーのM氏は康子の肩を軽く叩いた。

 「わかりました。これから一生懸命がんばります」その言葉を聞いた彼は席を立った。

 「さてと...僕は社に戻ります」M氏が喫茶店を出ていったのが午後7時10分ごろ。

 康子の母親・H子さんはまだ食事をしていないことに気づいた。

 「お腹すいたね。焼きそばを作るけどヤッコもいる?」

 「私はいらない。コーヒーを温め直して飲むよ」 康子はそう言って手つかずで置かれたままのカップをH子さんに手渡した。

 ソファに座りながらコーヒーを飲む康子。 母親の目には娘が落ち込んでいるように見えた。先ほどの打合せでは、芸能人の一般常識、心構えについて話し合った。交友関係、生活態度に話題が及んだ際、マネージャーの言葉は遊びたい盛りの少女にとって、少々キツイことに思えた。だが、娘はこれからアイドルになるのだし、母親はひどいことだと思わなかった。

 康子は何か注意されると沈む癖があるが、翌日にはケロッとしている。明日になれば元気を取り戻すだろう。

   「ママ、おばあちゃんの部屋に行ってるね」康子は立ち上がった。

 「お風呂にでも入って、ゆっくりしてって。お店を片付けたらママも後で入るから。そしたら一緒に帰ろうね」H子さんの口調はいつになく優しかった。

   喫茶店のある建物の3階には康子の祖母が住んでいた。母親は仕事が終わると、3階の風呂場で汗を流した後、帰宅することが多かった。

    「ママ、ごめんね」そう言って康子は店から出て行った。

   この時、時計の針は午後7時30分ごろを指していたという。ここまでが母娘の「最後の20分間」となるやり取りだ。

 そして、午後7時30分以降ー。

 H子さんはモーニング用の仕込みを終えると、シンクに放置してあった洗い物に取り掛かった。食器類やテーブル類を拭き終わり、補充すべき食材や飲料をメモした。

 もう、客も来ないだろう。そろそろ店を閉めようと思った。康子が3階に行ってから1時間ほど経っただろうか。お風呂はもう出たはずだ。

 彼女は、ふとカウンターを見た。そこに置いてあったのは18金のペンダント。このペンダントは彼女の持ち物だが、この1か月は康子が気に入って身につけていた。

 そのペンダントを見た瞬間、さっきの「ママ、ごめんね」という言葉が蘇った。H子さんは、すぐさま電話を取った。親子電話で3階へ通話した。

 「ヤッコはお風呂から出た?」

 「え、来てないよ」祖母は言った。

 H子さんは、あわてて外に出た。外はすでに真っ暗だった。店の前に一台のパトカーが止まっていた。サイレンの音には気づかなかった。いつの間に来ていたのだろう。まさか、まさか。

 「飛び降りだってさ」集まっていた人が彼女に教えてくれた。

 横断歩道に視線を向けると暗闇で血だまりが浮かんでいる。血だまりの主の姿はなかった。

すでに救急車で搬送されていた。H子さんの全身から力が抜けていく。

 「男ですか⁉ 女ですか⁉」彼女は叫んだ。

 「二十歳ぐらいの男のコみたいだよ」それを聞いたH子さんはホッとし、店に戻って祖母に言った。

 「お母さん、ちょっとヤッコを探してくる」騒然とする外に再び飛び出すと、警察官に呼び止められた。

 「奥さん、これ見てください」

 差し出された物はさっきまで娘が履いていた靴だった...。

 康子が病院で搬送されたのは午後8時34分で、死亡が確認されたのは午後9時半過ぎである。

 

 

 康子の死は予見できなかったのだろうか?

 H子さんは会見で自殺する1か月前から娘の挙動がおかしかったことを告白している。顔色が悪くなり、何でも話してくれる彼女が口をきかなくなった。それはまるで霧のベールに覆われたようだったという。「自殺の理由は恋愛関係ではない」としながらも、彼女が情緒不安定な状態にいたことを母親は認めている。康子はウツ状態に陥っていた可能性が高い。

 歌手デビューが目前に迫り、歌、ダンスのレッスン、プロモーション活動...分刻みのスケジュールに追われ、肉体的に精神的にも相当ハードな日々を過ごしていた。プロダクション、レコード会社からも「中山美穂を追い越せ」という使命を課せられていた。その期待は、負けん気の強い彼女にとって、プレッシャーという大きな塊となって彼女を押し潰そうとしていた。「死」を口にし、〝死の世界〟に傾倒していった。死の兆候はあった。大人たちはそれに気づいてあげられなかった。

 そして、運命の3月30日が訪れる。

 康子は事件当日、四谷にある事務所の養成所でレッスンを受けていた。レッスン終了後、四谷から台東区にある母親の喫茶店まで同行したマネージャーのM氏は「彼女の様子は普段と変わりなかった」と証言している。しかし、M氏が帰り、母娘の二人きりになると康子は明らかにふさぎこんでいた。

 それから20分後に彼女が店を出て行くまでの間、母親とはほとんど会話らしい会話をしなかった。焼きそばを食べるかと聞かれ、「いらない」と答え、 コーヒーを飲んだ。

 身につけていた18金のペンダントをカウンターに置いた。

 「おばあちゃんの部屋に行く」と言って外に出た。

 最後の言葉は「ママ、ごめんね」だった。

 

 

 

 

 

 

遠藤康子の愛読書は大藪春彦

 

 

 

 

 

 

   初めの一発は、恥じらう処女から奪う接吻のようなものであった。邦彦は真田の顔   

    に向けて、続きざまに発砲した。焼けて熱くなった銃身と、鼻を刺す硝煙の下で、肉   

    と血と骨が四散し、人間の顔というよりは1個の残骸と変った。

     顔を砕かれようと、セメント樽につめこまれていて海に投げ込まれようと死人の知

    った事ではない。一度死んだ者はどんな事も苦にならず、どんな事にも煩わせずに、   

    永遠の眠りをむさぼるだけだ。

         

                   遠藤康子が死の直前に読んでいた『野獣死すべし』(大藪春彦著)の一説

 

 

 「死ぬ間際、遠藤康子が大藪春彦を熱心に読んでいた」と知ったときは意外な気がした。彼女と私に共通点があったことを嬉しく思った。私にも大藪春彦の小説に相当ハマった時期がある。それは中学3年生のときで、私はクラスの全員から無視されるという事態にあっていた。今でいうとイジメなのだろう。幸いにして体が大きかった私は、殴られたことも集団でボコられたこともなかったが、誰にも話しかけられないというのは相当ミジメだった。高校生になれば状況が変わるだろうと、ひたすら沈黙に耐え、志望校に受かることだけを夢見た。

 友達が一人もいなかった私の慰めは、アイドルと読書だった。毎日のように本屋の文庫棚に行き、片岡義雄、森村誠一、半村良、平井和正などの小説を買い求めた。中でも大藪春彦は、角川文庫、徳間文庫をはじめ、あのころ文庫化されていた彼の小説は全部読んだと思う。

 私が大藪小説にハマったのは、殺し屋、諜報員、探偵、元兵士といった主人公が、たった一人で大勢の敵を殲滅していく物語が痛快だったからである。

 大藪春彦が書いたものは「ハードボイルド小説」というより「暴力小説」に近い。主人公がとにかく非情で、自分が生き残るためだったら手段を選ばない。飛んできた弾丸をよけるため、何の罪もない一般人を盾に使うし、家畜を屠るかのように人を殺める。ダシール・ハメット、レイモンド・チャンドラーを始祖とするハードボイルド小説の根底には、ダンディズムやヒューマニズムが流れていると感じるが、大藪小説にはそれらが欠如している。

 康子が死ぬ間際に読んでいた『野獣死すべし』は大藪春彦が昭和33年(1958年)に発表したデビュー作である。大藪の思想のおおよそが掴める原点と言ってもいい作品だ。

 主人公は、第二次世界大戦中、ロシアの地で子供時代を生き抜いた伊達邦彦。虫ケラのように人々が死んでいく様を目にした伊達は、善悪の価値観が崩壊する。帰国した伊達は、戦後景気に浮かれた日本社会に対して挑戦状を叩きつける。大学の入学金を強奪する完全犯罪を計画。己のルールのみをよりどころに生きると決めた彼は、目的達成のため、肉体の鍛錬、射撃、運転技術の習得...暗い青春をぶつける。入学金を略奪することに成功した伊達は、口封じのため、共犯者の親友を非情にも撃ち殺す。

 当時、『野獣死すべし』は、戦後のユースカルチャーのさきがけとなる太陽族を生んだ石原慎太郎の小説『太陽の季節』の対局にある作品だと当時みなされた。

 大藪小説で活躍するのは「スーパーエゴイスト」と呼ぶべき強烈な自我を持ったヒーローたちだ。例えば、マシンガンを持った100人の敵に囲まれ、勝ち目がないとわかっても自決はしない。その身を銃弾で引き裂かれたとしても何とかして生き延びる方法を探す。

 大藪春彦の小説では、主人公が死ぬケースは少ないが、例外もある。

 彼の代表作のひとつ『汚れた英雄』の二輪レーサー・北野晶夫は、栄光の頂点を極めた後、転向した四輪レース中に他の車に追突され、炎に包まれながら絶命する。

 また、私の1番好きな作品『傭兵たちの挽歌(バラード)』では、元グリンベレー兵士・片山健一は、妻子を殺したテロ集団に復讐することを決意。執念で最後はボスを追い詰め、なぶり殺しにした片山だったが、直前に放たれた核兵器から降ってくる死の灰の中で、その身を朽ち果てる。

 大藪小説の主人公の生き方は、無謀で破滅的に見えるが、自殺はしない。目的を達成する過程で、運悪く死んだのであって、死ぬこと自体が目的だったわけでない。

 康子が大藪春彦の小説に感化されていたというなら、なぜ、彼の作り出したヒーローたちのように夢や生に執着しなかったのだろう。あのまま歌手デビューしてもよかったではないか。アイドルとして成功するしないは別問題として、夢だった女優の仕事を追いかければよかったのではないか。

 彼女は小説の中で過剰に描かれる〝死〟に魅せられてしまったのだろうか。生き延びようとする主人公よりも、あっさりトドメを刺される脇役に感情移入してしまったのだろうか。

 

 「知らない街を歩いていてバッタリ死んじゃうのっていいね」

 「ピストルでバンと撃たれたら苦しまなくていいのかな」

 康子はいつものケロッとした調子で、2歳年下の弟にもこう言っていた。仲良しだった弟は、告別式の夜にうなされ、2度ほどベランダから飛び降りようとしたという。 

 「その時の〝死んでいるような目〟を見たら、ヤッコもそうだったと思った...」(母親の証言)

 死への傾倒ぶりが弟にも伝染していたのだろうか。

 スポーツが得意でお祭り大好き。人一倍笑い声が大きかった。暗さは微塵も感じさせないネアカ少女。

 しかし、遠藤康子は能天気だけじゃなかった。彼女の暗い一面は見逃されていた。彼女が目指したのは藤谷美和子や桃井かおりのような女優だった。

    

 

 

   くせのある女優になりたいな。そうだ、狂った女やりたいの、わたし。

          

                          『DELUXEマガジン No.15』(講談社)1985年8月号

 

 

 生前、彼女は有吉佐和子の小説『和の宮様御留』の狂女を演じてみたいと語っている

 「死ぬと魂が浮き上がって、斜め三十度の角度から、自分の体や泣いている人たちを身をおろすのよ」

 友人にもそんなことを言って、康子は〝死後の世界〟に興味を示した。

 

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