ひとりただくずれさるのをまつだけ
女性芸能人で初めて投身自殺した遠藤康子
自殺の報道が加熱すると、自殺する人の数が増えるという、ウェルテル効果と呼ばれる学説がある。イギリスの社会学者が発表したウェルテル効果は、ゲーテの著作『若きウェルテルの悩み』を読んだ若者が、主人公ウェルテルと同じ方法で次々と自殺した現象に由来する。
岡田有希子の後を追った現象がウェルテル効果だとすると、そもそもの発端は遠藤康子の自殺報道だったと言える。有名モデルの死は有名アイドルへと伝播し、そこからドミノ倒しのように無名の若者が死んでいった。
しかし、このケースは日本で初めてのことでない。ラジオやテレビといった放送メディアが発展していった戦後、著名人の自殺がセンセーションに取り上げられると、一般人の後追い自殺も続出した。
その種のニュースで、昭和の日本でとりわけ世間を驚かせたものといえば、作家・太宰治の玉川上水への入水自殺(1948年)、作家・三島由紀夫の自衛隊での切腹自殺(1970年)、俳優・田宮二郎の猟銃自殺(1978年)、俳優・沖雅也の京王プラザホテルからの投身自殺(1983年)などがあげられる。
戦後の芸能界、女性タレントで最初に自殺を取りざたされたのは東映女優の中村英子だった。1972年に『ポスト藤純子オーディション』で5千人から選ばれた中村は同年に銀幕デビューし、数年に渡って任侠映画を中心に活躍する。その後、中村は山口組三代目田岡一雄の長男で映画プロデューサーの田岡満と結婚。芸能界を引退して専業主婦となっていた彼女は、1975年、自宅で死んでいるところを発見される。警察は死因をガス中毒による自殺と判断。中村は24歳という若さだった。
また、同じく1975年には、モデルの保倉幸恵が国鉄横須賀線の電車に飛び込み、亡くなるという事件が起こっている。『女学生の友』をはじめ、少女雑誌のモデルとして活躍した保倉は、前年から本格的に女優デビューを果たすが、事件当時はすべて仕事をキャンセルしていて、ほぼ休業状態にあった。
保倉幸恵は、母親の病気をきっかけにノイローゼになって自殺したと言われている。その後、「ドラマで共演した俳優の森本レオとの関係に悩んでいたのでは?」「森本との子供を宿していたのでは?」という噂が持ち上がる。遺体は解剖されないまま荼毘に付されたので、噂は推測の域を出なかった。
しかし、近年、女優の水沢アキが「17歳のときに無理やり処女を奪われた」と週刊誌に暴露し、「あいつだけは許せない」と森本を名指しで糾弾したことがある。22歳という若手女優を死に追いやったのは、当時〝処女キラー〟として名を馳せていた先輩俳優の森本レオだったのだろうか。
女性タレントとしては、この保倉幸恵の次に自殺したのが、遠藤康子だった。しかも、ビルから飛び降りた初めてのケースに当たる。康子こそ、投身自殺をおこなった初めての女性芸能人なのだ。岡田有希子の投身自殺は、動機は違うが、遠藤康子の延長線上にある。康子のケースはそれまでの女性タレントの自殺とは様相が異なる。
康子は誰かを模倣したのではないか。お手本にした人物がいたのではないだろうか。
夭折詩人・岡真史との類似点
「この1カ月くらい、そういえばヤッコは少しおかしかった。やたらと〝死〟という言葉を口にしていました。12歳で自殺した天才詩人の岡真史の『ぼくは12歳』なんかも愛読し、似たような詩を書いていました。ああいう世界に惹かれていたんでしょうか」(母親の証言)
遠藤康子は岡真史(おか・まさふみ)に憧れていたような節がある。
12歳の岡真史は、1975年7月17日夕刻、近所の団地から等身自殺をはかった。死亡時の彼は、どこにでもいる普通の中学生だった。遺書はなかったが、自室からは詩の手帳が見つかった。詩は小学6年生の晩秋から書き始められ、死の当日に終えていた。
1962年9月30日、作家の高史明(こう・しめい)と高校教師の岡百合子の間に産まれた岡真史は、何不自由なく、愛情あふれる家庭で育った。陽気で友達づき合いもよく、クラス委員をつとめるなど協調性もあり、読書とビートルズのレコードをこよなく愛した。
几帳面さに欠けるところがあった岡は、忘れ物が多いことを父親から叱られると、初めは涙こそ浮かべるものの、30分もするとケロリとするような呑気な性格で、むしろ母親が「この子は内省的なところがないのだろうか?」と心配していたくらいだった。
父親は高史明という高名な朝鮮国籍の作家だったが、岡真史は母親の姓を名乗っていた。彼自身は日本国籍で、生い立ちや家庭環境にコンプレックスに感じている様子もなく、 死の数か月前には父方の親戚を訪ねるため九州を一人で旅している。
イジメられていたとか、女のコにフラれたとか、何かに悩んでいたというような直接的な自殺の原因と思われるようなものは、結局見つからなかった。動機は謎だったが、学校に出す予定の提出物が手つかずだったことから、その死は計画的だったとも言われている。
父親の高史明は、息子の死の半年前に『生きることの意味』と題する本を出版したばかりだった。彼は「もし、これが人生の皮肉というものであるなら、これ以上に残酷な皮肉もない」と語りつつも、「真史がその命を代償にして、はじめて教えられたことがある」とも心情を明かしている。
ひとり息子を失った両親は深い悲しみの中、翌1976年、彼の詩を『ぼくは12歳』という一冊の本にした。彼の詩からは、少年のみが持ちうる陽気さ、弱さ、無邪気さがキラキラと光を放ち、そのぶん、少年の目に映った世の中の暗さをも映し出していた。『ぼくは12歳』に多くの若者が共感を覚えた。
遠藤康子もそんな一人だった。彼女は岡の詩に心酔していた。死の1か月前ごろから「死」を口にする回数が増えたが、もともとこの夭折した詩人の生き方に強い関心を寄せていた。
遠藤康子と岡真史の自殺には、いくつかの類似点が見られる。
性格が陽気で、社交的だった点。第三者から内省的な性格が見逃された点。夕刻から夜半にかけて高い建物から飛んだ点。自殺の動機が不明な点。遺書がない点。詩を書いた手帳を残していた点...。
康子も手帳によく詩を書いていたという。
「十七歳ぐらいの時に書く文章は、誰でもだいたい『恋』ですよね。現実には恋してなくても。あの手帳の中にも、そうした言葉が書きつけられていました。男友達がどうこうのと憶測されてる時ですから、結びつけられても困るので、目にふれない方がいいと思って、手帳はお棺の中に入れました」(母親の証言)
岡真史の詩は出版物として残されたが、残念ことに康子の詩の大半は彼女の亡骸と一緒に焼かれてしまった。岡が残した詩の手帳の表紙にはこう書かれていた。
ひとり
ただくずれさるのを
まつだけ
少年は「ひとりただくずれさるのをまつだけ」に耐えられず、死を選んだというのか。『ぼくはしなない』という彼の有名な詩の中では「死」について言及している。
ぼくは
しぬかもしれない
でもぼくはしねない
いやしなないんだ
ぼくだけは
ぜったいにしなない
なぜならば
ぼくは
じぶんじしんだから
「ぼくだけは ぜったいにしなない」と書いた少年は不死を信じていたというのか。あるいは、父親とは別のやり方、彼なりの方法で『生きることの意味』を表現したというのか。確かに少年の短い生涯と彼の残した詩は〝生きることの意味〟を問いかけている。肉体は朽ち果てても彼の魂は生き続けている。
戦前戦後に存在した美人薄命という自殺動機
岡の行動は戦前のある事件を思い起こさせた。それは1933年に起こった、三原山自殺事件である。21歳の女学生が伊豆の三原山火山に飛び込んだ新聞記事をきっかけに、この年だけでも944人が火口へダイブした。一人の女性の死が、戦前の日本に空前の自殺ブームを巻き起こした。
文学少女だったこの女学生は重度の潔癖性で、結婚や老いを極端に嫌い、普段から「19歳になったら死ぬ」という自殺願望を口にしていた。彼女は己の美学のためにマグマに飛び込み、その身を焼き尽くした。それが女学生の本望だった。そんな彼女の生き方に共感を覚え、死んでゆく若者は少なくなかった。
最近はあまり言われなくなったが、美人薄命という言葉がある。「美しいものは命が短い」 という美人薄命の考え方は、ある時代まで支持された価値観であるが、いつの時代にも「醜くなる前に死にたい」という願望を持つ若者はいる。
岡真史は〝欲がない〟子供だったという。物をねだったり、あれが食べたいと言ったことがほとんどなかった。高度成長期に生まれ、物心がついた頃には大量のテレビコマーシャルにさらされ、物欲を刺激された世代にしては冷めた性格だった。彼もまた潔癖性だった。りんごの蜜の部分を「腐っている」と口をつけようとしなかった。
岡には空想癖があった。幼稚園では、いつもボーッとしていることを先生から指摘された。高校教師だった岡の母親は「私が産休明けで職場復帰し、2歳からの2年間、息子をいろんな人に預け、父親も仕事で大変な時期だったため、父親とも離れて育ったために空想癖が増幅されたのでは...」と分析していた。
そういえば、康子の母親も次のように語っていた。
「ヤッコが4歳のとき主人が病死しました。姉は学校へ行っていました。弟は実家へ預けました。ヤッコ1人が鏡を相手に話をしながら留守番していたのです」
どうしたらカッコよく死ねるか
岡真史は2歳、遠藤康子は4歳。孤独をまぎらわせるために空想の世界に入る方法を身につけた。現実には存在しない友達を相手に遊ぶといったことは幼少期に誰にでも見られる行為だが、成長していく過程でその遊びはしなくなる。
まわりからは「お祭り好きのネアカ少女」と評されていた康子。一方で彼女は極度のさびしがり屋でもあった。思春期に入り安定しているように見えた彼女だが、深層心理に眠っていた孤独感、焦燥感が呼び覚まされてしまったのではないだろうか。
レッスン、レコーディング、プロモーション活動といった過密スケジュール、大人たちからの期待とプレッシャー。歌手デビューが現実のものになっていく中で、17歳の少女にかかっていたストレスは並大抵なものではなかった。ストレスを回避する手段として康子が空想の世界に逃げ込んだとしても不思議でない。
死の1ヶ月前、母親と娘の間に舞い降りた〝霧のベール〟。彼女は現実世界と空想世界の境界線をさまよっていた。
もちろん、康子には夢があった。
「私は世間の人にわかってもらいたくて、こっちに進んだから」と始めた歌手活動、「クセのある女優になる」という目標はリアルな夢だ。
だが、リアルじゃない夢の魅力には勝てなかった。
リアルじゃない夢は「どうしたらカッコよく死ねるか」だった。空想の世界では死は神秘的でロマンチックなものに映る。生前、康子は高校の友人にこう言っていた。
「私、死ぬのなんか怖くない」
友人のほか、母親、弟にも「死」を話題にした。誰も彼女が本気だと思わなかった。
あと52日を待てば〝アイドル・遠藤康子〟が誕生する。その前に自らを葬る。誰もが羨むような輝かしい未来をあっさり捨て去る。それが一番カッコいい。
康子はそう考えたのかもしれない。これはあくまで私の推測だ。
彼女にとって死は冒険だったのであるまいか。それは登山家にとっての冬山、サーファーにとっての大波と呼んでいいかもしれない。死の淵をのぞき込んでみたいという衝動...。誰にでもある衝動とは言い難いが、思春期の若者は自分の命を危険にさらすことに無頓着だ。
その衝動を現実のものにすれば、肉親、友人、関係者がどんなに嘆き悲しむか、夢の中にいた康子はわからなかった。彼女が母親の店を出て、路上で倒れているところを通行人に発見されるまでの時間が1時間ほどある。その間の康子の足取りはわかっていない。おそらく彼女は夢遊病者のように街をさまよっていたはずだ。
自分の幸せを顧みず、女手ひとつで彼女を育てた母親。一緒にお風呂に入ったお姉ちゃん。セリフ読みを一緒に手伝ってくれた弟。デビューを心待ちにしていた友人たち。近所に住む大学生Tくん。高校の同級生Gくん。『母子家庭のバラード』に涙した担任の先生。母親の喫茶店に通う常連客たち。今度遊ぼうと約束したモデル仲間。行きつけの喫茶店のマスター。夢を託したヒラタオフィスの社長。そばで見守ったマネージャー。レコーディングに立ち会った橋幸夫。曲を書いたカシオペアの桜井哲夫。営業に奔走したリバスター音産の社員たち。グラビアを掲載した雑誌の編集者たち。
康子の死を嘆き悲しんだ沢山の人々が、「男友達と別れるよう言われたことが原因で死んだとは思えない」と言った。
私もそう思う。「男関係の悩みで死んだ」なんて彼女に対する冒涜のような気がする。
彼女は覚めない夢の中で必死でもがいていたのだ。
空想の世界に迷い込み、そのまま帰らぬ人となった遠藤康子。
「セピア色のひみつ」とは死に魅せられてしまった17歳の魂だった。